結婚における霊的戦い -良い結婚を勝ち取るために-   タイトル・ページへ

Byビル・ストーンブレーカー

 

第一章

戦場を知る

-警戒するものは武装する[1]べきである-

 

ナディアとピーター

彼はハンサムな作曲家でした。彼女は莫大な遺産を相続した女性でした。お互いを愛し合っていました。二人が一つとなることによってそれまで世界が聞いたこともなかったような熱情的な音楽が生み出されました。彼女の名はナデズダ(ナディア)・ヴォン・メック、彼の名はピーター・イリッチ・チャイコフスキーといいました。

 

ナディアはモスクワで最も裕福な女性でした。けれども、彼女の莫大な富は、彼女の夫の死ということに関してはほとんど無力でした。それで、彼女は多数の召使や侍従たちとともに彼女の巨大な邸宅に隠棲してしまいました。世界はドアの一歩外に存在していたのに、彼女はひどく孤独でした。しかし、彼女の邸宅にはピアノがありました。そして彼女は優れたピアニストでした。それを演奏することによって彼女は傷の癒しをうけました。旋律は彼女の憂鬱を表す手段となりました。彼女は自分のために自分の好きな音楽を演奏したのでした。

 

その頃、モスクワにはチャイコフスキーという名の36歳の作曲家がいました。彼は知らなかったのですが、彼の音楽は一人の未亡人に強く語りかけるものでした。それはまるで彼が彼女の隠された熱望を旋律とハーモニーの網に織り込んでいったかのようでした。彼もまたこの女性が彼の作る音楽に対する熱望から彼の知り合いを通して彼について詳しく知るようになっていたことは知りませんでした。ロマン期もその頂点にさしかかろうというころ、ナディアはピーターの音楽と恋に落ち、やがては彼自身と恋に落ちていったのでした。

 

ついに彼女は勇気を奮い立たせ、自身を彼に紹介しました。彼らの関係は非常にかしこまった始まりかたをしました。“閣下”“奥様”といった呼び方が彼らの挨拶に使われました。ナディアはいくつもの音楽を注文し、ピーターのパトロン、助言者、そして時には彼の親友でありインスピレーションとなったのでした。

 

14年もの間彼らは孤独な世界で互いに愛を求め合い、喜びを分かち合い、そして悲しみの時には慰めあい続けました。14年間のあいだ、彼の輝くような情熱的な音楽は彼女のために作曲され続けました。そしてこの事ゆえに世界は永遠に彼女に感謝すべきなのです。ピーターにとってナディアは自由そのものであり、時にはナディアだけが彼と狂気とを隔てる存在だったのです。

 

しかしある時別れはきました。関係を終えようとしたのはナディアでした。誰もそれがなぜなのかわかりません。けれども二人がその後長く生きることはありませんでした。ナディアの健康は次第に衰えていきました。ピーターは彼女の名前を口にしながら死んでいきました。しかし彼らとともに消えなかった秘密は彼らの間に交わされた書簡という形で残りました。実際のところこれらの書簡は私たちが彼らについて知りうること全てと、彼らがお互いについて知りえたこと全てを含んでいるのです。ピーターとナディアにとって、音楽をめぐる張り詰めたまでのこの恋愛は 孤独な相続人の作曲家に対する愛と作曲家の彼女への愛と− 距離を隔てたものだったのです。美しい幻想を壊してしまうことを恐れたナディアとピーターは彼らの恋愛を手紙に閉じ込めた続けたのでした。14年間の間、彼らは一度も会うことはありませんでした。

 

現実の世界

ナディアとピーターのように、私の妻のダニータと私もモデルになるような関係を持てたかも知れません(私たちが手紙だけによる関係を持ったらの話ですが)。けれども現実の世界ではそういうわけにはいきません。もし結婚が紙切れとインクだけによるものだったとしたら、問題は起きないでしょう。夫婦ともに最善の振る舞いをとりつづけ、相手に向かって不機嫌になったり失礼なことをしたり、ということもないでしょう。けれども現実はどちらかというと、以下の質問にこう答えたある既婚男性のようなものなのです。“朝起きるとき、不機嫌な???[2]

 

結婚における難関は、小さなことで互いに離れ離れになってしまわないということなのです。ソロモンはそれを“ぶどう畑にいる子狐”と呼びました。“私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や子狐を捕らえておくれ。(雅歌215節)”これは生涯を共にすごすカップル誰にでもあてはまることなのです。

 

時々私は人がこういうのを耳にします。“私たちは結婚してから一度も議論したことがないんだ。”そして私はこう考えます。“お互いが見えているんだろうか?話をするんだろうか?あなたたち、生きてるんですか?”これはダニータと私にはありえないことでした。私たち両方が、いわば“不一致クラブの創立メンバー”でした。私たちはお互いの強情な性格や意見を乗り越えて一致にいたる方法を学んでこなければなりませんでした。

 

人間の性質について明晰な洞察力をもっていた使徒パウロは、結婚についてこう言いました。“ ただその人々は、その身に苦難を招くでしょう。・・・結婚した男は、どうしたら妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、・・・結婚した女は、どうしたら夫に喜ばれるかと、世のことに心をくばります。”(第一コリント7:2833-34

 

健全な結婚においても、困難なときと順調なときの両方が存在します。あなたは困難にどう対処するでしょうか?結婚が分裂してしまわないように何ができるでしょうか?専門家は2つの結婚のうち1つは離婚で終わると述べています。これは結婚の成功率がコインの裏表程度の確立でしかないということなのです。数値はあなたの味方ではありません。けれども“神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう。”(ローマ9:31)なのです。

 

敵の計略

“盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊が命を得、またそれを豊かに持つためです。”(ヨハネ10:10

 

悪魔はあなたの結婚を嫌い、それを滅ぼすために出来ることは全部やろうとしています。結婚が破綻に終わるとき、私はこういう言い訳をよく聞きます。“私たちはお互いに不適合なんだ”とか“彼女への愛を失い、他の人と恋に落ちてしまった”とか“こういう関係は不似合いなんだ”とか“人生の方向性を変えたから”など、数を上げればきりがありません。結婚における最大の失敗は“神がつなぎ合わせたもの(マタイ19:6)”を滅ぼそうとする目に見えない霊的な力に気づかないことにあるのです。

 

空中の権威の王子であるサタンと光と命の主であるイエス・キリストとの戦いは熾烈なものです。イエスは私たちを救うために十字架上で死に、よみがえってくださいました。イエスを信じるとき私たちは精霊によって新しく生まれるのです。人が新生したら、その人はキリストの体である教会に配置されます。このため、サタンからの攻撃は結婚に対するものだけではなく、結婚した夫婦が属する教会にも向けられているのです。

 

結婚はキリストと教会との関係の縮図です。神様は二つの組織だけをこの世で定められました。結婚と教会です。両者はエペソ人への手紙531-32節の中でこのように例えられています。“それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。この奥義は偉大です。私はキリストと教会とをさして言っているのです。”聖書が“ハデスの門もそれ(教会)には打ち勝てません。(マタイ16:18)”と言う様に、悪魔は両者のうち弱い方、結婚を狙うのです。

 

戦闘に向けて準備をしてください。“警戒するものは武装するべき”なのです。敵について知らなければなりません。結婚における衝突の背後に潜むものは、取るに足らないような不一致を一緒に生活することを不可能にするような問題であるかのように膨らませて見せることのできる残忍な敵です。悪魔は混乱・困惑、そして喧嘩を喜ぶのです。

 

私の結婚生活を思い返すとき、一つのばかげた場面が脳裏をよぎります。ダニータと私は離婚法廷に立っており、裁判官がこう聞いています。“ここにいる理由はなんですか?”私たちはこう答えます。“豚の骨なんです、裁判長。”そして私たちは豚の骨にからむ事件について話し始めるのです。それは敵がどのように些細な問題を大きなものに変化させたかという話です。以下が実際に起こったことです。

 

ある日私たちは家周りと庭を掃除していました。その日はたまたまダニータが草刈機を動かしていました。彼女が外にいる間、私はキッチンを通りがかり、そして部屋の片隅の器に入っている豚の骨を見つけました。やるじゃないか、私はこう思いました。過去何ヶ月も彼女は残り物の豚の骨を集めて凍らせて、犬のためにとっていたんだ。ですから私は乾燥したドッグフードを犬のえさ皿に入れ、そしてその豚の骨を混ぜ、水を入れ替えたのでした。私が器を片手に庭に通じるドアから外に出たとき、ダニータがそれを見てがこう叫びました。“何をやってるの?その骨は今日のスパゲッティ・ソースのためにずっと取っておいたものなのよ!”私は笑いました。そして彼女は嵐のように草刈機へと戻りました。

 

私にとってそれは単純な間違いで、おかしな話でした。けれども彼女にとってはそれは非常に真剣な問題だったのです。問題?第一にその骨を犬のえさにしてしまう前に私はこう尋ねませんでした。“ねぇ、この骨は何のためなの?”第二に彼女は草を刈っていたとに、私は手伝っていませんでした!私は彼女が私たちの強力草刈機を使って草を刈ることを好きでやっているんだと思っていたのですが、現実には彼女は私自身が草を刈るのを別の日に先送りしてしまったことに失望してしていまったのです。第三に、彼女が冷凍して保存していたあの骨は、彼女にとって銀行預金のようなものでした。時間はかかりましたが、ついに彼女はスパゲッティのソースに必要な分を集めきったのです。私の最後の間違いは、彼女をフルに回転している草刈機まで追いかけていったことでした。状況を楽しんでいる自分を抑えきれず、彼女にこう聞いてしまったのです。“あの骨洗ってほしい?”彼女はにらみ返してこう言いました。“自分で考えなさいよ。”

 

私は家に戻り、瞬間だけ本当にその骨を洗うことを検討しました。けれども結局はやめておくことを決めました。代わりに、夕食のスパゲッティの重要な部分を占めるはずだったその骨を犬に食わせてしまったのです。

 

後になって私たちが、私たちの上に起こったことについて話したとき、私は笑いをこらえられず、時々忍び笑いをもらしてしまいました。ダニータが私の無神経な振る舞いに傷つきを隠せなかったにもかかわらずです。私がにたにた笑うたびに、彼女のストレスは増大していくのでした。

 

私はこう言いました。“ねぇ、もう少し時が過ぎたら、僕たち二人ともこのことを思い出して笑っちゃうと思うよ。”

 

彼女の機嫌はさらに悪くなりました。最後には私も彼女と同じくらい苛立ちを覚えるようになり、状況はエスカレートするばかりでした。“子狐がぶどう園を荒らす”のです。豚の骨が理由で離婚するなんて信じられますか?人はそれを“性格の不一致”とでも呼ぶのでしょうか?

 

心理カウンセラー達は人間関係において争いがつきものな理由として、あたりまえなことを挙げます。(片方が)放ったらかしにされていること、コミュニケーションの問題、無責任さなどです。建築家であり、Reality Therapyの著者でもあるウィリアム・グラッサー[3]は、“根本的な(特に愛情や自己価値)必要を満たされていない人は自分の周囲の現実を否定し、無責任な行動をとる。これはその人が過去を通して直視を避け続けてきた現実から逃避するための手段である。”と分析しました。

 

聖書はそういった表面的な見方よりも、もっと根本的な原因が結婚の不調和や離婚にはあるとします。サタンの盗み、殺し、滅ぼすための戦略がそれです。激しい不和をくぐり抜けてきた夫婦は、後になって悪魔がいかに現実を歪め、争いを引き起こし、混乱を作り出していたかを知ることができます。悪魔は非常に小さなことを、とても大きなことであるかのように見せることができるのです。[4] 

 

創世記第三章で蛇がイブに話しかけたとき、イブは知らないうちに歪められた現実の犠牲になってしまいました。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。(第5節)サタンは、神様がイブを隠された宝から遠ざけようとしておられるかのように話を作り替えました。自分の良心に背き、神様に逆らうことによってのみイブはその宝を得られるのです。“結果がよければ手段は問題ではない、実を食べることで得られる喜びは神様からの命令を破るのに値することだ。”−悪魔はイブにそう信じ込ませました。けれどもイブは“死ぬほど”間違っていました。神様の良い目的を、悪魔は現実を歪めることで悪いものであるかのように見せかけたのです。

 

結果として死という別離がやってきました。そしてその後には闘争が続いたのです。かつては調和に満たされ、愛に満ち、よいものであった関係は今や敵意と非難と苦々しさとにとって代わられてしまいました。神様が彼らに“あなたがたは私が食べてはならないと命じておいたその木からとって食べたのか?”と言われたとき、アダムは“あなたがくださったこの女が私に食べさせたのです”と返答しました。助け手としてのイヴが今やアダムのための生贄になってしまったのです。そして争いがエデンの園に入り込みました。

 

神様の御言葉が無視され、カップルの片方あるいは両者が自分勝手な道を歩み始めるとき、混乱が彼らの関係に浸透し始めます。イヴが罪を犯した後、アダムは彼女にすすめられて禁じられた実を食べてしまいました。彼がイヴに対する愛と彼女を誘惑から守りきれなかった責任感からそうしたということは言えるかも知れませんが、結果としてそれは彼を神様との親しい関係から引き離してしまうことになりました。“ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか。”(アモス3:3)“神は混乱の神ではない”(第一コリント14:33)私たちが神様の御言葉をないがしろにしようとする敵からの誘惑に負けるとき、混乱が私たちの間に入り込むのです。

 

妻ダニータと私たちが結婚して30年以上がたちます。私も彼女も結婚から抜け出したいと思ったことが何度かありました。けれども今日私たちは今までにましてお互いを愛しあっており、神様が私たちの人生において為してくださったことを他の何とも交換したいとは思いません。困難を感じていたあの何年かの間、私は彼女が問題の原因だと考えていました。けれども彼女にとっては私が原因だったのです。喧嘩を経て、“埃がおさまる”ごとに私たちは悪魔がいかに今は思い出すこともできないような小さなことを用いて、私たちのお互いへの愛情を不明瞭なものにしようとしてきたかということに気づくようになりました。今は悪魔のやり方というものについて、私たちは経験をつんでいると言えるかも知れません。悪魔がいかに小さなものを、克服不可能なほど大きく見せかけて、私たちが離婚する理由を与えようとしているか今は見えるようになりました。

 

今あなたも大変なプレッシャーをあなたの伴侶との関係において感じているかもしれません。物事は忍耐の限界を超えているように見え、もうあきらめたいと思っているかもしれません。でも待ってください!プレッシャーの本当の原因について考えてみたことがあるでしょうか?それは物理的な現実を超えたものなのです。私たちが本当の戦場はどこなのか知り、誰が本当の敵なのか −悪魔なのですが−理解するまでは、私たちを分かとうとする本当の問題と向き合うことも、悪魔のやり方から自由になることもできないのです。

 

本当の戦い

統計は二回目の結婚が離婚に終わる可能性が一回目の結婚における離婚の可能性よりも高いことを示しています。悪魔が問題を抱えている夫婦に向かってこうささやいているのを想像してみてください。“次はきっとうまくいくさ。ほら、その間抜けなんか放りだして、次に進もうよ。”

 

全ての夫婦が困難なときを経験しますし、調和を達成するためになんらかの調整をおこなわなければなりません。サタンは私たちの目を根本的な問題からそらす為に、貴方が信用できる異性の同僚のようなごまかしを私たちの人生に送り込もうとします。同情にあふれるその同僚が貴方の話を聞いてくれることをえさにしてサタンはあなたという犠牲者を釣ろうとしているのです。その人はとても理解に満ち溢れていて親切です。そしてやがてあなたは、この人こそが私のために時間をとってくれて私の思いに耳を傾けてくれる人なんだと思うようになります。そしてそれは“私の伴侶がこの人くらい物分りがよくて親切だったらいいのに”という比較につながっていくのです。

 

突然戦場は場所を変えます。もはや問題は結婚における困難の調整といったものではなく、憐れみぶかい、けれどもあなたの伴侶ではないその人との感情のもつれに変化しているのです。あなたは自分の伴侶を捨てて、この新しい素敵な関係に身を投じることを考え始めます。あなたが自分のことを気にかけてくれ、完全に理解してくれると考えるその人と“いつまでも幸せに暮らす”ことを思い浮かべるようになるのです。

 

けれども現実は、サタンが釣りに出かけそしてあなたが釣られてしまった、という状態なのです。統計によると二度目の結婚の60%が離婚に終わるとあります。なぜでしょうか?それは、サタンがずる賢く作り上げた幻想が、現実によって閉じられてしまったからなのです。汚れたお皿を洗ったり、仕事に追われたり、そして請求書を支払ったりする日常生活に身をおくようになると、多くのものを約束してくれていたかに見えたその関係も、実はあなたが捨て去った過去の関係となんら変わりはないということに気づくのです。過去と同様あなたは自己中心的な人間の性質と人間関係における問題と向き合い続けなければならないのです。

 

これがサタンの手口です。サタンは理想のイメージを描きあげます。伴侶ではないその人といれば、人生は完全になる − そしてどういうわけかあなたはそれを信じてしまうのです。偽りは、あなたが結婚に関して真実であると知っていることや神様の目に正しいと見えることを非現実的な幻想を追い求めるために捨て去ることをよしとします。けれども、じっさいのところそれは妥協と偽りでしかないのです。

 

アン・ランダーズへの一通の手紙が、伴侶を捨て去り偽りの愛を追い求めた結果の感情の余波についてよく説明していると思います。この人はこう書きます。

 

“親愛なるアン。私のことをお話したいと思います。たくさんの人が私がやったように人生を歩もうとしているのを知っているからです。時々人は結婚においても孤独になったり、愛されていないと感じたりします。23年結婚していてもそういうことはあるのです。人生はこんなものではないはずだ、そう考えて、自分のことを幸せにしてくれるその人を見つけようとします。やがて彼こそが私の捜し求めていた人だ、そう言える男性に出会います。そして23年寄り添った自分のそれまでの伴侶に別れを告げ、結婚していたときにできた友達を捨てて、荷物をまとめて出て行くのです。子供たちには自分と一緒に来るか父親と一緒にいるか選択させます。最初のごく数年の間は人生はとても輝いているかに見えますが、その後空っぽの頭に電灯がともります。自分が昔過ごしていたのと変わらない生活を今していることに気づくのです。違いはひとつ、友を失い、子供たちの尊敬を失い、全てを23年間わかちあった最大の親友を失っていることなのです。そして、彼がそばにいてくれたらと思います。愛はいきなり起こるのではなく、何年もかけて育むものなんだということに気づきます。けれども自分のやったことをやり直すことはできません。仕方なくうつろな心を抱えながら孤独で愛のない人生で満足しなければなりません。アン、他の人が真に大事なことをあきらめてしまうことがないように、私の手紙をコピーしてほしいと思います。彼らに教えてあげてください。人はそれがどれだけ大事なものなのか、それを捨て去らないと気づかないのだと。”フィラデルフィアの憂鬱な女性より。

 

非常に心の痛む話です。これまでこのような過ちを犯すことのなかった人 −もしくは再び犯したくない人― は“警戒するものは武装するべきである”ということを認識する必要があるのです。戦場を理解してください。悪魔は偽りのプロなのです。悪魔は人の人生に痛みと悲劇をもたらすために、本来そうではない姿に物事を変えて見せるのです。

 

悪魔がいかに巧妙に物事を偽装するかについてのおかしな話があります。もちろんサタンの策略から来る最終的な結果というのは決しておかしなものではありません。けれどもこの話はある意味で非常に的をえていると思います。

 

非常に成功していた法廷弁護士がある日心臓発作で亡くなりました。彼の魂は天国へとのぼり、そこで彼は御使いガブリエルに会い、こう言われました。“ここに慣れてしまう前に言っておきたいのだが、少し問題があるのだよ。弁護士がここまで来るっていうのは前例のないケースでな、私たちはお前についてどうするべきかはっきり決められずにいるのだ。”

 

男はこう返事しました。“天国に入れてくださいよ。”

 

“そうはいかないんだ。私はお前を一日ずつ地獄と天国の両方で過ごさせるように命令を受けておる。その後で、お前はどこで永遠を過ごすか決めるがよい。”

 

男はこう言いました。“でも、天国にいたいんですけれど。”

 

“悪いが”ガブリエルは言いました。“決まりは決まりだからな。”

 

こういうわけで、彼はエレベーターに乗せられ下の方へ下の方へと地獄に向かって降りていったのでした。

 

ドアが開き、彼をそこで待っていたのはよく整えられたゴルフ場の芝生でした。壮大なカントリークラブが目の前にあり、彼の友人や同僚たちがよく仕立てられた服に身を包んで立っていました。彼らはこの新人に駆け寄り、彼を抱きしめ、背中をポンとたたきながら、昔の思い出話をはじめました。

 

彼らはゴルフを数ラウンドプレーし、ステーキとロブスターの夕食をとりました。サタン自身が宴会の幹事をつとめました。彼は暖かく礼儀正しく、個人的にこのゲストを他の人に紹介しました。彼らはその後一晩中をダンスや笑い話をしながらすごしました。そして突然のようにそこを去る時間がやってきました。全員が涙を流してさようならを彼にいいました。彼がそこに残ってくれたらと願いながら。

 

彼はエレベーターに乗り、今度は上へ上へと上がっていきました。今度は天国です。ガブリエルが彼に会って嬉しそうに挨拶しました。“今度は天国での一日だよ。”弁護士は天国でも素晴らしいときを過ごしました。そして、最後に質問が突きつけられたのです。“天国と地獄の両方で一日を過ごしたわけだが、永遠に住む場所としてどちらを選ぶかね?”

 

弁護士は一瞬沈黙して、そしてこう言いました。“実はね、天国は素晴らしいところだっていつも聞かされていたんですよ。でも誤解しないでくださいね。実際ホントに言われていたとおりの素晴らしい場所でした。けれでも、地獄がどれだけ恐ろしい場所かっていうことも私は聞かされていたんですけど、実際のところ地獄はまったくそれとは正反対の場所でした。私の友達みんながそこにいてとても素晴らしい時間をすごすことができたんです。自分がこんなことを言うなんて思っても見なかったんですけど、でも地獄に行きたいんです。”

 

ガブリエルは困惑して、彼を見て言いました。“本当だな?一度エレベーターに乗ったら、それで終わりなのだよ。今回は片道切符だよ。”

 

弁護士はこう言いました。“確かです。”

 

彼はエレベーターに乗せられ、地獄に向けて再び下へ下へと下っていきました。

ドアが開いて彼が目にしたのは、今度はあたり一面拒否感と汚物とで覆われた荒地でした。後ろの方から恐ろしい嘆きの声が聞こえてき、やげて息の詰まるような熱も感じるようになりました。そして汚い服に身を包み、ごみを拾い上げては袋に詰めている彼の友人たちを目にしました。

 

悪魔が彼に挨拶しました。彼は大声でこう叫びました。“昨日ここにいたときはすごく綺麗だったのに。ゴルフ場に、カントリークラブ。そして友人たちは楽しそうでいい身なりをしていた。ステーキとロブスターを食べて一晩中笑って踊ってすごしたのに。何がおこったんだ?これじゃゴミ捨て場じゃないか。友人たちもすごく惨めそうだ!”

 

悪魔は尊大そうに彼を見てあざ笑うようにこう言いました。“昨日はお前をスカウトしてたんだ。今日からはお前は社員なんだよ。”

 

主と、私たちが真実だと知っている全ての御言葉と、そして主の計画を、敵とその嘘を信じて離れ去るとき、それはいつも失望に終わるのです。サタンは、結婚した相手を離れて自分をとても幸せにしてくれるその人と一緒になることを私たちに説得しようとします。

 

今の時代には新しいタイプの主婦や漁色家がいます。彼らは家にいながらにして、孤独で退屈な恋愛遊戯に手を出すのです。これを“ネット上の不貞”と呼びます。“オンラインでの不品行は日増しに増加しています。それについて本を書けるほどなのです。”と、人間関係の専門家で著者でもあるペギー・ボーガンは言います。“実際、こういった人たちは実際に会ったこともない人のために自分の伴侶と別れるような危険を選択することで知られています。”

 

ワシントンにいる離婚専門の弁護士であるサンフォード・アインはこういいます。“しばしば、インターネットでの出会いは離婚に終わってしまいます。お互いの浮気に耐えられないカップルは、ほとんど一緒に関係を続けることはできません。”

 

心理学者である、フロリダのデビー・レイトントールはこう述べます。“インターネットは人が出会い、不品行にいたる最も一般的な手段の一つになりつつあります。”彼女によると

“人が彼らのインターネット上の体験について私に話してくれるとき、彼らはこういいます。”恋に落ちているんです。彼は私のソウル・メイトです。すごいんです!“ 彼らは私には実際に人と親密になることでしか体験できないはずの情熱を語っているのです。ただ彼らの場合はそれはお互いにあったり触れたりすることのないネット上の話なのですが。彼らは立派な大人たちです。結婚していて、子供もおり、責任ある仕事にも就いています。けれども彼らはファンタジーとして始まった関係に人生を左右させていくのです。その事で頭がいっぱいになり、憑かれたようになります。そして昂揚は続き、上昇していきます。それが幻想の性質なのです。頭の中の幻想が彼らを行動させます。これは実際に起きている問題なのです。”

 

この現象を研究してきた別の心理学者はシャーリー・グラスです。彼女は関係について、ウェブ・グラス[5]にコラムを書いてもいます。彼女はこう述べます。

“ファンタジーがインターネット上の情事をユニークなものにしています。人は自身の一部しかネット上で見せることはありません。そしてこれが人を幻影に基づいたロマンスへと駆り立てるのです。ファンタジーを触媒するため関係は最初から非常に緊密なものになります。肉体的な接触は必ずしも必要ではありません。ネット上の関係とそれ以外の関係とに共通するものは、秘密と、感情的な親密さ、そして性的な合致なのです。”

 

悪魔は今もスカウト中です。そしてあなたがそれに乗せられてしまうなら、あなたもアン・ランダーズに手紙を書いた人のように、二回目の状態というのは一回目よりも悪いものなんだということを発見するでしょう。けれども離婚を考えている人、または離婚してしまった人たちにもとても大きな希望はあるのです。あなたの過去に何が起こったとしても、神様はあなたのために今計画をお持ちです。神様が修正できないような人の過ちというのは存在しないのです。

この本にでてくる証のいくつかがローマ人への手紙828節に書かれている真理を証明してくれるでしょう。“神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。”もしあなたがあなたの道を主にゆだねるなら、主は最悪の状況からでさえ良いものを作り出すことがおできになるのです。主は失われてしまった歳月も、駄目になってしまった機会も、そして間違った決定もよい方向に向けることができるのです。主はとこしえに贖いの神です。ヨエル書の225節にはこう書いてあります。“大軍勢が食い尽くした年々を、わたしはあなた方に償おう。”言い換えるなら、私たちが主に助けを求めるとき、主は私たちの間違った生き方を乗り越え、良いものをもたらしてくださるのです。

 

神様はこれを教会にいる無数のカップルたちに行ってくださいました。彼らの証のいくつかはこの本に含まれています。同様のことが何回も繰り返して起こりうるのです。なぜなら。主は奇跡的な方法を通して物事を行われるからです。神様の御力と恵みとが他のカップルに限定されたものではなく、あなたの人生のためにも用意されているのだということを主がお示しくださるように私たちは祈ります。神様の贖いの愛はいつも“灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の街頭を(イザヤ書613節)”もたらすのです。あなたがこの本を読み進むにしたがって、それがあなたの人生にも起こりますように。

 

 

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[1] To be forewarned is to be forearmed

[2] However, reality is more like the story of the husband who was asked, “When you get up in the morning, do you wake up grumpy?” To which he replied, “No, I just let her sleep!”

[3] William Glasser

[4] He takes the minuscule and makes it monumental.”

[5] Web.Glass