結婚における霊的戦い -良い結婚を勝ち取るために-   タイトル・ページへ

Byビル・ストーンブレーカー

 

第二章

過去を打破する

 

実にあなたは私に対してひどい宣告を書きたて、私の若い時の咎を私に受け継がせようとさせます。ヨブ記1327

 

ヨブという名は試練や患難という言葉と同義語になってきています。彼は全てを持っているかに見えました。けれどもそれを一夜にして失ってしまったのです。家族も、友人も、健康も、そして富も。彼の妻もたいした助けにはなりませんでした。彼女のヨブに対するアドバイスは神をのろって死になさい(ヨブ記29節)というものでした。

 

ヨブ記1326節で、混乱し傷ついたヨブを見ることが出来ます。悲劇の暗闇の中で、彼は神様が自分の若き日の過ちを罰しておられるのだと理由づけました。けれども実際には神様はヨブの大ファンだったのです。天国で神様はヨブのことを自慢しました。けれどもサタンが神様の自慢にこう言って挑戦したのです。ヨブは雇われ人です。あいつはあなたが与えたものがあるからあなたに仕えているのです。それを取り上げてごらんなさい、そうすればあいつはあなたの顔にむかって罵声を浴びせるでしょう。それにあなたがあいつの周りに壁をはりめぐらしたから、私はあいつに触れることもできません。こうして、一時の間サタンがヨブの命に干渉することをお許しになったのです。結果は続けざまに起こる混乱でした。

 

人々はしばしば悪魔によって起こされる混乱について神様を非難します。イエス様は弟子たちにガリラヤ湖の対岸に渡るよう命じられました。嵐が起こり、彼らは遭難しそうになってしまいました。そしてイエス様が来られ、嵐をしずめられました。嵐の原因になったのは誰ですか?それはイエス様の命令に従うことから弟子たちを妨害しようとするサタンではなかったでしょうか?悪魔はあなたが神様に従うことを邪魔するためになら何でもするのです。サタンは神様が私たちの人生で今行おうとしておられること邪魔するために、我々の過去の罪を我々の現状に持ち出すということをします。

 

イザヤ書の4318節には、先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。とあります。けれどもこれこそが悪魔の手段なのです。神様がなさろうとしておられる良いことをだいなしにするために、悪魔は過去の過ちを持ち出してあなたに向かって投げつけるのです。悪魔は解決されていない夫婦間の争いを持ち出します。怒りが私たちの頭の中に常にあることを悪魔は望んでいます。それによって我々が伴侶に対する意見を形作ることを知っているのです。結果はなんでしょうか?昔の事どもが私たちの現在の問題に対する私たちの認識に影響を与えるようになります。現在おかれている状況の中で過去を持ち出すことなしに問題を解決することだけでも大変なことなのです。ですから十分な時間をかけて過去の問題をまず片付けてください。そしてそれらが許され、忘れられ、そして解決された状態にしてください。

 

ある夫婦の結婚生活において、一人がもう一人にとって誠実でなかったということがありました。それはずっと昔に終わったことでした。強い悔い改めと罪の言い表しがなされました。そしてそれは過去のものとして許され忘れ去られるはずでした。それ以来、このカップルはそれが大きいものであれ小さいものであれ不一致はなくす、ということが当たり前になりました。お互いに不誠実にいたるような土台を作らないためです。口論とお互いの視点を譲歩しないことは、それがお互いを解決していない争いというレンズを通して見ることにつながるということを知らない間は、重要でないことに見えるかもしれません。傷つけられた側が、傷つけた側に対して卑屈になったり苦しんだり罪の言い表しを求めている間は、悔い改めた過去の罪は実際のところ赦されたわけでも忘れられたわけでもないのです。その結果、一度は罪をおかしたけれども悔い改めた側も別の土台を築くことになってしまいます。自己の尊厳とアイデンティティ、そして赦される必要を満たすために戦う必要が出てきてしまうのです。過去にしがみつくことは神様が二人に今用意しておられることを台無しにしてしまいます。

 

私たちは伴侶を神様が我々をご覧になるように見なければなりません。私たちの罪は赦され、忘れられたのです。旧約と新約聖書の両方において神様は私たちの罪を思い出されないと言われています。文字どおりわたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない(エレミヤ書3134節)のです。またこれは、私たちがどれだけ罪深いかを思い出させるために我々の過去の間違いを私たちに向かって投げつけるようなこともない、ということを意味します。ヘブル人への手紙1017節にはこうあります。わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。

 

もし私たちが伴侶を神様がご覧になるように見るならば、私たちは彼らが主が望まれるような夫や妻になることを可能にするのです。神様は私たちのことを薔薇色に見てくださっている、といわれるかもしれません。実際のところそれは血の眼鏡を通してなのです。神様は私たちをキリストにあって赦されているものとしてご覧になってくださいます。主がご覧になられるように相手を見ることができるように、主の眼鏡を通して物事をみようではありませんか。主は喜んでそれをおあたえになると思います。実際のところ主はずっと持っていなさいと言われると思います。

 

 

1.理想的ではない始まり

 

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。エペソ人への手紙14

神様は私たちが彼のことを知る前から私たちのことをご存知でした。私たちが救われる前から神様の御手は私たちの命の上にあったのです。世界の基の置かれる前から私たちは神に知られていました。主の備えが私たちの人生に及んでおり、何もそれを止めることはできなかったのです。けれどもサタンは私たちに結婚について混乱したメッセージを送ろうとします。悪魔は私たちの過去の状況を通して、私たちの現状に対する疑いを引き起こそうとするのです。そしてあまり理想的ではないスタートをきったカップルはその君が結婚にそれだけ問題をかかえているのは、結婚したとき神が君の事を導いていなかったからだよ。という声に耳を傾けてしまいます。サタンはこうつづけます。君たちが一緒になることは神の計画じゃなかったんだ。事故だったんだよ。肉の産物さ。だから君たちの結婚は神にあってのものじゃないんだ。

 

一度神様の結婚における摂理と主権を疑わせることに成功したら、悪魔はこう続けるのです。神は君たちが不幸せな関係にとどまることを望んじゃいないさ。その結婚から抜け出して神が選んでくれる最善の人を見つければいいじゃないか。敵のこの嘘に耳を傾けることで人々は結婚を解消して別の人とやり直さなければならないと信じ始めてしまいます。今度は神様が選んでくださるという完全な相手との結婚です。もしサタンが、私たちの結婚は私たち自身の勝手な行いの結果で、神様の摂理ではないということを信じ込ますことができるなら、私たちは状況が厳しくなるとそこから抜け出すことだけを考えるようになってしまうのです。

 

聖書には神様が全ての状況において主権を持っておられるとあります。わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し・・・(エレミヤ書15節)。あなたの過去がいかに肉欲的で汚れたものであったとしても、神の主権の手は、あなたが生まれる前からあなたの上にあったのです。敵にこの事実をゆがめさせてしまってはなりません。

 

 

ダビデとバテ・シェバの人生における神様の御心

 

よく知られている信仰の英雄たち何人かのスタートは、肉欲的で汚れたものでした。けれども神様は彼らを祝福し用いられました。第二サムエル記11章は、完全と呼ぶには程遠いダビデとバテ・シェバのスタートについて語っています。神の御心が彼らの間違った決定を覆い、それを良いものへと転じたのです。

 

年が改まり、王たちが出陣するころ、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。(中略)・・ダビデはエルサレムにとどまっていた。(1節)人が労していないとき、そこは悪魔の仕事場になってしまいます or so the saying goes…。戦っていなければいけないその時に、ダビデは浮ついたことを行っていたのです。眠りにつけなかったある夜、彼は屋上にのぼり、そこから水浴びをしている美しい女性を見ました。地位が高ければ責任も大きくなります。イスラエルの王であった彼は、そこを去ってベッドに戻り枕の下に頭を突っ込んでこう祈るべきだったのです。主よ、私は欲情を抱いています。助けてください!あの光景を頭の中から追い出せないのです。私が抵抗できるよう助けてください!

 

この時点で彼は預言者のナタンを呼んで、枕元でナタンにトーラーを呼んでもらうべきだったかもしれません。そうする代わりに、ダビデは女性のことを調べてしまいました。彼女の名はバテ・シェバです。ダビデはそう言われました。ウリヤの妻です。ウリヤは戦場でダビデ軍の兵士として、ダビデ自身がそうしているべきだったように、イスラエルの名誉のために戦っていました。

 

王として、ダビデはバテ・シェバが彼のもとに来るよう命じました。聖書にはこう書いてあります。彼はその女と寝た。そして彼女は妊娠しました。そこで彼は戦場の報告を持ってこさせるという口実を用いてウリヤを前線から呼び戻すことで彼の罪を隠そうとしました。ダビデは、ウリヤが家にいる間にその妻と寝るだろうと推測したのです。そうすれば誰もがウリヤが父親だと思うことでしょう。けれども、王への報告の後ウリヤは家に戻りませんでした。そうする代わりに彼はダビデの住まいのドアの前で従者と一緒に眠ったのです。

 

なぜ、自分の家に帰らなかったのか。翌朝ダビデはこう尋ねました。

 

ウリヤはこう答えました。神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。ダビデの恥ずべき行為はウリアの清廉さによってさらに増幅するだけでした。

 

次の夜ダビデはウリヤを酔わせました。今度こそはウリヤも好色になって彼の妻と一緒にいようとするだろうと考えたのです。けれどもウリヤは自分の信念に忠実でした。再び外でダビデの従者たちと一緒に眠ったのです。ダビデはさらに悪行を重ねることになりました。彼は戦場の司令官のヨアブに向けた封印入りの手紙にウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。と記してそれをウリヤ自身の手に託したのです。

 

それが為されたという知らせが届いたとき、バテ・シェバは喪に入りました。けれどもその後それほど時間を経ずして彼女とダビデは結婚したのです。2年間の間ダビデは自分の犯した罪という雲の下で生活しました。その後ようやく預言者のナタンがやってきて寓話を通してダビデの罪と立ち向かったのです。

 

主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った。ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。富んでいる人には非常に多くの羊と牛の群れがいますが、貧しい人は、自分で買ってきて育てた1頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところで休み、まるで彼の娘のようでした。あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。“”(第二サムエル記12章1−4節)

 

義憤がダビデのうちに起こりました。それで彼は富んでいる人が取り上げたものの4倍を償いとして支払わせることを課すことにしました。その男は死に値する!と彼は叫びました。ナタンは彼を見てこう告げました。あなたがその男です!あなたはウリヤの妻を奪いました。あなたの王国にいるどんな女も自分のものにすることができたのに、あなたはあえて他人の妻を取り去ったのです。あなたが罪人なのです。

 

ダビデは悔い改め叫びました。私は主に向かって罪を犯してしまった。ナタンは彼にこう言いました。主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。(真実な悔い改めがなされるとき、赦しは即座に与えられるのだということを知っておくことは重要です。)ナタンはまたこう言いました。ダビデ自身は死なないが生まれてくる子供が死ぬだろう、と。ダビデは断食し祈りました。けれども赤子は死んでしまいました。その後ダビデはこう述べました。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。(第二サムエル記12章23節)

 

このような評判の悪いスタートをきった後、ダビデとバテ・シェバは別の子をもうけ、ナタンがそういったように・・・・???

ひどい始まりさえも、それが主の御手にゆだねられたときには祝された終わりを迎えることができるのです。ソロモンは父ダビデの跡を継ぎ王となりイエス・キリストへと至る系図に名を連ねることになりました。

 

ダビデとバテ・シェバのように、あなたも間違った始め方をしてしまったかもしれません。けれども神は、あなたがただ自分の人生を彼にゆだねさえするならば、物事をまっすぐにしてくださるのです。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8章28節)

 

ダビデとバテ・シェバが朝食の席でお互いを見て、私はあなたのことを好きじゃないな。とお互いに思ったこともあっただろうと私は思います。もしかしたら、ダビデはこう言ったかも知れません。大体において、何だってお前は屋上で堂々と水浴びをしたりしたんだ?そういうことをやる女って何者なんだ?恥じらいってものがなかったのかい?

 

そしてそれに対してバテ・シェバはこう言い返したかもしれません。それなら、屋上からこそこそ覗き見をしていたあなたは何者なのよ。私が結婚してるって知ってたのに私にあなたのところまで来させたりして。あなただって同罪よ!

 

彼らは多くの困難を乗り越えなければならなかったはずです。けれども、究極的には神は彼らの関係を祝福されたのです。

 

ダニータと私は、間違った始まりをしたけれども今は神の目に正しいことを行いたいと願っているカップルに、経験を通してこう言うことができます。ダニータが13歳で私が17歳のときに我々は出会いました。理想的とは言いがたい状況の中で3年後に私たちは結婚しました。そしてその後7年間私たちはお互いとそして結婚を駄目にしてしまうような考えうるすべてのことをやりました。その後で私は救われました。約一年後にはダニータも主を受け入れました。こうして二人とも聖書を読み、教会に行って、家では聖書研究会も開くようなクリスチャンになったのですが、それでも私たちが作り出してしまった人生の縺れを主が解きほぐしてくださるのに多くの年数がかかりました。この関係は絶対主の御心じゃないと私が思ったこともありました。ひどい始まり方をしてしまったし、多くの争いをその時も経験していたからです。けれども、私たちがひとつひとつの試練を乗り越えるたびに、私たちはそれを振り返って、いかに神の御手が我々の生活のうえにあったかということを見ることができたのです。

 

赦したくないという思い

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。第二コリント7章10節

 

神は彼らの関係が築き上げられるのに関わっておられず、それはすべて彼らの罪の結果なのだ、そう夫婦に信じ込ませることは、サタンが結婚を滅ぼすために用いる策略の一つです。この他に、神が今なさっておられることを駄目にしてしまうために、過去の罪を今持ち出すというやり方が為されるときもあります。悔い改められた過去の罪と悔い改められていないそれとには大きな違いがあるのです。

 

人が罪に対して悲しんではいるけれども、真実な悔い改めを明らかにしないとき、一つの明確な問題が起こります。その人が悲しんでいるのは、罪がばれてしまってばつの悪い思いをしているからなのでしょうか?それはこの世的な悲しみなのでしょうか?それともそれは罪と同じように悔い改めも明らかになり、人生が変わるような、正しい悔い改めでしょうか?

 

再びヨブ記13章26節を思い出してみてください。ヨブはこう考えました。実にあなたは私に対してひどい宣告を書きたて、私の若い時の咎を私に受け継がせようとされます。夫婦のうち一方がもう一方の既に悔い改られた過ちを非難するとき、悪魔はそこに不和を作り出すことができるのです。聖書の詩篇25章7節にはこうあります。私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。

 

もし主が私たちの罪によって私たちを不利にしてしまうようなことをなさらず、それを思い出されもしないのであれば、私たちもお互いの罪によってお互いを不利に陥れるようなことはするべきではないのです。それが先週のものであれ、去年おこったものであれ、20年前に起こったことであっても、あなたの伴侶の罪を忘れずにいて、それを相手を攻撃するための武器にすることであなたの結婚はみうごきのとれないものとなってしまうのです。

 

美女と野獣

第一サムエル書25章で、ひどい夫を持った美女の話を読むことができます。それは美女と野獣の旧約聖書バージョンなのです。アビガイルが美女で、彼女の夫のナバルが野獣です。彼は死ぬまで野獣でした、ともいえると思います。

 

マオンの地にやってきたとき、ダビデとその家来たちはサウルから逃走中でした。近辺で裕福だったナバルは彼の羊を僕たちに任せてカルメルで事業をおこなっていました。ナバルの留守中、ダビデとその家来たちはマオンのナバルにいる僕たちと家畜のそばに宿営を張り盗賊や略奪者の手からそれを守りました。その見返りとしてダビデはナバルに使いをやり、挨拶をさせて、家来のために少しばかりのものを求めました。その当時それはよく行われていたことでした。ナバルはダビデの正直さを馬鹿にして無礼な調子でこう返答しました。ダビデは逃亡奴隷にすぎないではないか。あいつは王国の反逆者だ。俺はそんな奴と関わりあいにはならんぞ。激怒したダビデは剣を身につけ、こう宣言しました。あいつの財産を守ったのは無駄な骨折りだった。あいつは悪を以って善に報いたのだ。やっつけてやる。

 

その言葉がナバルの妻−私たちは彼女が美しく聡明であったということ以外には、この女性についてほとんど知らないのですが−であったアビガイルの耳に入りました。彼女は即座に贈り物の準備を始め、しもべを先に送ってダビデに会わせ、彼女のためのとりなしをさせました。すみません、ダビデ様。家の女主人があなたの望まれた品々を持ってこちらに向かっております。お願いですから少しの間だけ剣を収めて彼女の言うことを聞いていただけないでしょうか?

 

しもべたちはダビデに、ナバルは近辺では名うての石頭で価値のない者だとされているということも話しました。ナバルのしもべも妻もそのことを知っている、と。ナバルの性格には欠点が多かったのでした。

 

ダビデはアビガイルと対面しました。アビガイルはダビデの前にひれ伏しこう言いました。私たちを憐れみ、主のなさる復讐をご自分の手でなさろうとしないで下さい。この信仰深い女性は、将来のイスラエル王に対して、自分のために行動するのではなく神が必要なことを為してくださることを信頼するように勧めたのです。

 

ご主人さま。どうか、あのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あの人は、その名のとおりの男ですから。その名はナバルで、そのとおりの愚か者です。このはしための私は、ご主人さまがお遣わしになった若者たちを見ませんでした。(第一サムエル記2525節)

 

要するにアビガイルはこう言っていたのです。私の夫の振る舞いが愚かだったからといって、あなたが同じようにする理由はないはずです。ナバルというのが夫の名前で、そのとおり彼のやり方というのは愚かなのです!。 彼女が話すにしたがってダビデは冷静さをとりもどし、彼女の直感をたたえて、彼女を祝福されたものと呼びました。ダビデは彼女の贈り物を受け取り、平和のうちに彼女を家へと送り出し、自分たちの来た道を戻っていったのです。

 

アビガイルは家に戻り、彼女のやったことを夫に話すのに適当な時をみつけようとしました。彼女がナバルの頑固な生命と彼の持ち物とを救ったということを。ナバルは盛大な宴会を催しており、アビガイルはナバルが酔っ払っているのを知りました。それで彼女はナバルの酔いがさめるまでダビデのことを話すのを待つことにしました。(もしかしたら彼女はアルコールと虐待というのが同じところから出ているということを経験していたのかもしれません。)

 

朝になってナバルの酔いがさめたとき 彼女はそのことをナバルに告げました。どうして彼も他の人々もまだ生きているのかその理由を。聖書は、彼がその言葉を聞いたとき彼は気を失って石のようになった、と記しています。彼は非常に頑固者でした。自分の妻が自分の意思に背いたということ−たとえそれが彼の家族にとってよいことであっても−を彼の自己中心さは耐えることができなかったのです。彼の高慢さが、それを受け入れることを拒みました。自分の心を和らげるかわりに、彼は固くなってしまい10日後には死んでしまったのです。

 

私たちすべての中にいるナバル

赦さない気持ちを抱き続けることは、結婚を滅ぼしてしまうだけでなく、赦そうとしないその人をも滅ぼすことになるのです。Once sins have been repented of they need to stay in the past. もし私たちが伴侶の過ちについていつまでもくよくよと考え続けるなら、私たちは神様が私たちの未来に備えてくださっているものに移ることができないのです。

 

アビガイルとナバルの物語を読めば、彼女は正しく彼は間違っていたという結論に達します。男性は自分と妻との関係がナバルとアビガイルのような関係だとは考えたく(実際そうでなければいいのですが)ありません。けれども私は、すべての男性がナバルのような一面を持っていると信じています。男性が自分たちの態度のチェックを怠るなら、女性を助け手のようにではなく、生贄の山羊のように扱うようになってしまうのです。男性が偉業を成し遂げない理由や、男性が心の奥底で実際は自分はそういう人間だと考えるような素晴らしくて、幸せで、そして楽しい人でいることの出来ない原因が彼の妻になってしまうこともありえるのです。

 

今ここでナバル・テストを受けて、自分の性格の中にナバルのような部分が存在しているかどうか確認することが出来ます。

 

−結婚した当時と比べてみて、あなたは自分の伴侶に対してより優しくなっているでしょうか、それとも厳しくなっているでしょうか?

 

−あなたの伴侶の弱さに対して、あなたは去年よりも寛容でしょうか、それとも非寛容でしょうか?

 

−あなたの伴侶が過去の罪を悔い改めたにもかかわらず、あなたは伴侶の性格を過去のことを通して小うるさい、醜い、魅力的でないなどとして記憶していませんか?

 

−伴侶の強い部分を感謝しているでしょうか、それともそれを脅威だと感じているでしょうか?

 

−伴侶の弱い部分を外に明らかにしてしまうでしょうか、それともそれを隠しているでしょうか?

 

おわかりになりますか?自身の人生において、妻に対して不健全な態度をもつようになってきていると私も気づいたのです。彼女が心の問題を私と話そうとするとき、私は彼女の言うことを聞いていませんでした。何度も繰り返して彼女は自分の意味するところを表現しようとしたのですが、私は一言も聞こうとしませんでした。彼女のことをナバルのように認識することによって、私は既に自分の結論を導き出していたのです。

 

電灯が頭の中に突然ともるように物事を理解するためには、時には莫大な時間と労力が必要となります。それは実に大変な作業です。電灯がともったとき、私はこう言っている自分に気がついたのです。ああ、それが君の言っていることだったんだな。それが君の意味することだったんだ。君が何を言っていたのかようやくわかったよ!。

 

ナバルのような傾向が私たちの中にあるのだと認めたくはないかも知れません。けれども非寛容さが私たちの心を頑なにし意思疎通を切断してしまうなら、私たちの結婚の破綻は切迫したものとなるのです。ナバルの生と死は、いかに寛容でない魂が物事を破壊に導いてしまうのかを描写しています。内側の怒りを保ち続け、既に悔い改められた過去の罪を赦さずにいる限り、私たちの伴侶が何を言っているのか本当に聞くことはできないのです。赦さない霊は耳の門とつながっています。それが話を聞くプロセスを阻害し、理解できないように頭脳を混乱させるのです。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。(マタイ書1314節)

 

 

赦しについてイエス様がおっしゃっていること

 

マタイ書18章でイエス様はたとえ話を用いて赦しについて話しています。たとえ話とはOne thing laid down next to anotherもしくは単に天国での真理を語るためのこの世のお話です。聞くものが深い理解を得られるようにと意図されているのです。ですからそれは部屋にある窓のようなものです。それによって光が入ってこれるのです。

 

マタイ書のこの部分で、イエス様が人を困らせる攻撃的な人々についてメッセージをされた後、ペテロは赦しについて考えていました。そしてペテロはこう尋ねました。主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。(マタイ1821節)ペテロは多分、同じ人を一日7回も赦すだけの意思があるなら、それによって主を感動させることが出来るだろうと思っていたのです。本当のことを言えば、私は感動させられています。

 

考えてみてください。知人が来てこう言います。たくさんの職場の同僚と一緒にあなたの悪い噂話をしてしまいました。赦してください。そしてあなたは彼を赦します。

 

一時間後彼が電話してきてこう言います。今スポーツ・クラブにいるんだけど、なんだか気がつかないうちに、ここにいる人たちにあなたのことを中傷するようなことを話してしまったんだ。赦してください。あなたはこう考えます。こいつ、なにしやがるんだ。けれども、霊的でいたいあなたはこう言います。わかった。赦すよ。でも何をしゃべるか気をつけてよ。評判ががたがたになっちゃうから。

 

その45分後、彼はまた電話してきてこう言います。赦して欲しいんだ。さっきスーパーにまでミルクを買いに急いで行ってきたんだけど、レジに向かう列にならんで人と話してるときに、また君の悪口を言っちゃったんだ。私だったらこの時点でたぶん冷静さを失い、非常な皮肉屋になって、彼の誠実さを疑う調子でこう言うでしょう。あのさ、僕も昔は天使だったんだ。君の僕に対する悪口が僕の翼を噛み千切るまではね。だめだよ、もう赦さない。そして君の顔も二度と見たくない!

 

私はペテロの一人の人による同じ過ちを一日7回赦すことのできる能力には感動させられます。けれどもイエス様は感動しませんでした。イエス様はペテロにこう言いました。七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。別の言い方をすれば、点数をとるのを止めなさいということなのです。私たちは、今までに何度気分を害されて何度赦したかといったようなことを記録しているような人々のようであってはならないのです。イエス様は、それは回数の問題ではなく態度の問題だと言っているのです。赦す心を持ってください。

 

具体的に描写するために、イエス様はこういうたとえ話を用いられました。

 

このことから、天の御国は、地上の王にたとえることが出来ます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラント(今日でいう一千万ドルくらいで、返済不可能な額です。当時ビル・ゲイツや、その他の億万長者たちは存在していませんでした)の借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。(マタイ182325節)

 

別の言葉で言えば、正義が状況に当てはめられたということです。それは純粋な報いでした。あまり親切なやり方ではないと思うかもしれません、そしてそれは正しいかもしれません。けれども法律的にはそれが正しいやり方だったのです。

 

この負債を負った者の反応に注目してください。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。と言った。26節)しもべは自分の有罪を認めて、返済を行う意思を示したのです。悔い改めは主にとっては喜ばしいことです。27節で彼の主がこう言っていることに注目してください。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。けれどもその後28節で、ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、借金を返せ。と言った。ここでしもべは別の奴隷に向かって、彼が経験したシナリオを繰り返したのです。それは正しい言い分でした。その奴隷は彼に借りたものがあったのです。彼が主人から借りた額に比べれば微細なものでしたが。百デナリは大体14週間分の給料でした。普通の契約職業をとおして返していくことのできる額でした。その意味するところは、債務者がある一定の期間債務が返済されるまで働くことです。この場合だとそれが14週間かかったということになります。

 

彼の仲間は、ひれ伏して、 もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。 と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。(マタイ182930節)自分の主によって多額の借金を免除してもらった者が、今度は仲間の小さな借金を免除するのを拒んだのでした。そしてその仲間を牢屋に放り込んでしまいました。牢につながれた状態で借金を返せるでしょうか?無理に決まっています!。これは憎しみを握りしめ、いつでも取り出せるような状態にしておくことの例です。復讐と赦さない心とがよく描写されています。

 

彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。 悪い奴だ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。  こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天の私の父も、あなたがたに、このようになさるのです。(マタイ183135節) 

 

何によって主がお怒りになるか知りたいですか?この箇所は赦さない心が主を怒らせることを明らかにしています。この箇所の象徴するところは明らかです。最初の僕の借金は返済不可能な額でしたが、彼が悔い改めたときに主人は僕を赦したのです。

 

私たちは、神様に対する負債を返済することのできないこの僕なのです。宇宙にある全ての金脈を所有して、永遠にそれを掘り続けたとしても十分ではありません。ですから、神様はご自身をその代価としてくださいました。御子であるイエスの血です。[1]

 

ご承知のように、あなた方が先祖から伝わったむなしい生き方から購い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(第一ペテロ11819節)

 

カルバリの丘で流されたイエス・キリストの血は私たちの負債を返済するのに十分なものです。他人、特にあなたの伴侶の罪を赦すのにあなたが必要とするものは何でしょうか?赦される望みも、脱出の見込みもないような霊的な牢屋にあなたの伴侶を閉じ込めてしまっていはいないでしょうか?赦すのに何かを犠牲にしなければならないでしょうか?ほんの少しのプライドですか?それとも自己中心的な考え[2]でしょうか?謙虚になることでしょうか?ナバルのことを思い出してください。彼は赦すことを拒み、それは彼にとって大きな負担となったのです。

 

先の例え話によると、主は借金を全部返すまで悪い僕を獄吏に引き渡した、となっています。主がクリスチャンを天国に入れなくする、とこの箇所が言っているようには見えません。けれども間違いなく、人がこの世の地獄を味わうことになる、ことをこの箇所は描写しています。赦さない心は、その(赦さない)人の人生を食い尽くしてしまうのです。それは昼には苦しみをもたらし、夜には苦しみからくる痛みをもたらすのです。人を老け込ませ、精神を蝕み、内側から人を苦しめるのです。

 

 

過去を打ち負かすこと

 

敵による2つの策略をこれまで見てきました。一つ目は、理想的とはいえないような始まりを理由にして、神様が一緒にいるよう召されたのだということを、夫婦が疑うように仕向ける策略です。そして二つ目は夫婦の片方が、伴侶の(悔い改めた)罪にこだわり続けるように仕向けることによって、その伴侶を赦しの与えられない牢屋に閉じ込めようとする策略です。[3]これらのことが、私たちの結婚生活を成長することもなく、神様のご計画に沿うこともないような、活気のない[4]ものとしてしまうのです。

 

良いスタートをきることができなかったとしても、神様はあなたの人生と結婚生活において主権を持っておられるという事実を受け入れてください。神様の御手があなたを今に至るまで導いてきてくださったのです。[5]あなたの過去はダビデとバテ・シェバのような劇的なものではなかったかも知れません。けれどもそれがどのような状況であったとしても、神様の主権と導きがあなたの上にあったのです。

 

ヨブのことを思い出してください。最初ヨブは、彼の受けた試練は神様が彼に敵対していることのしるしだと受け止めました。実際には神様は常にヨブの味方で、すべてが良い結果を生むようにと計画されていました。ただ時間がかっただけのことだったのです。ヨブが人生を終えるころ、彼は当初の2倍もの祝福を受けていました。[6]彼が受けた試練や困難は永続するものではないということをヨブは理解するようになっていました。神様が栄光に満ちた将来を計画され、そしてそれらの困難が起こることをお許しになったのです。

 

あきらめてしまわないで下さい。それがとても悪いことであるかのように見えたとしても、神様がなさっておられることは良いことなのです。神様のご計画がヨブの人生において明らかになり、ヨブが想像を超えるような祝福を受けたとき、ヨブは(短く表現するなら)もう黙ろう!、と言いました。厳密には、ヨブ記423節の次のような発言でした。まことに、私は、自分で悟り得ないことを告げました。自分でも知りえない不思議を[7]

神様の導きがあなたとあなたの伴侶とを一緒にしてくださったのです。これから先に進み、結婚生活において神様からの祝福を受けるためには、伴侶のことを赦すことで過去を打ち破る必要があるのです。

 

赦しに関しては、以下の三つの原則を応用してみてください。

1.赦しを求める側に必要なのは、何とかなる 的な態度[8]ではなく、悔い改めの心です。別の言い方をするならば、赦しを最初から期待することよりも、心から悔い改めることに気を配るべきなのです(赦しはいずれ与えられます、けれども悔い改めは赦しを前提条件としたものであってはいけません)。

 

2.間違いをおかされた側は、赦そうという姿勢と態度を保たなければいけません。

 

3.カップルは、神様が二人とその置かれている状況について示されている約束を信じて、二人の上に当てはめていく必要があります。ですから、聖書を読み、神様が示されていることを学んでください。[9]

 

 

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[1] So God took it upon Himself to pay the price for us. The blood of His Son, Jesus.

[2] A little bit of ego?

[3] And second, how he persuades one spouse to hold a grudge for the past sins for which their mate has repented, keeping their mate in a prison of unforgiveness.

[4] “dead”

[5] The providence of God has brought you to where you are right now.

[6] At the end of Job’s life, he was blessed twice as much as at the beginning.

[7] “Surely I spoke of things I did not understand, things too wonderful for me to know” (NIV)

[8] Expectant heart

[9] So read the Bible and see what He has for you.