結婚における霊的戦い -良い結婚を勝ち取るために-   タイトル・ページへ

Byビル・ストーンブレーカー

 

第四章

良い喧嘩をすること

 

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」 エペソ426

 

 

ボクシングのリング

 

チャック・スウィンドルの子供時代に経験にもとづくお話があります。結婚における敵の戦略に立ち向かう上でとても重要な教訓がそこから得られると思います。

 

 

「これを聞くと驚かれるかもしれませんが、私はボクシング場の隣にある家で育ったんです。そうです、ボクシング場の隣です。予選は平日の夜に行われるのですが、大きな試合はいつも土曜の夜遅くの11時半から夜中の1時ぐらいの間に行われていました。公平な試合というのはそこにはありませんでした。11歳のバンタム級選手、ウォルター級の父親、そして準ヘビー級の母親の試合だったからです。それはちょっとした見ものでした。

 

試合が始まると、スウィンドル家の三人の子供たちはトイレに集まり、明かりを消して窓を開け、それを見物するのでした。私の母はポップコーンを作り、コーラとココアと一緒にそれを出してくれました。それは、「ハワイ・ファイヴ−0」[1] 「コジャック」[2] そして 「ハザード郡のデューク一家」[3] を全部足したものよりも面白い見世物でした。東ヒューストンで見られる最高のショーがそれでした。常に予測できぬ、それでいてエキサイティングだったのです。正直なところ、その家族が引っ越すことになったとき私は悲しく思ったほどでした。」

 

 

私たちの周囲にすんでいる人々は、同じように窓を開けて私の家で行われていることを見物しているのだろうかと私は考えてしまいます。私たち夫婦は、自分を表現し、要点をまとめ、そして感情を表に出すことがあまり上手ではありません。意思疎通が上手くいかないとき、争いが起こります。皆さんの中のある人たちはこう言われるかもしれません。

「私たちは結婚して30年になるけれど、一度も言い争ったことはありません。」 

それを聞いたなら私はこう考えるでしょう。

「この人たちの脈拍を確認した方がいいぞ。30年間この人たちは息をしていたのだろうか?」

 

30年間といわず、30日間ですら私たち夫婦は言い争わずにすごしたことはありません。けれどもキリストにあって我々が成熟していくに連れて、建設的に一致しない ことを私たちは学んできました。言い争うかわりに、情熱的に議論 するようになったのです。キリストにあって成長するにつれて、不一致はあってもそれを聖書的なものに留めておくことを私たちは学んだのです。

 

どうすれば“良い喧嘩”をあなたの伴侶と行い、なおかつそれを聖書的なものとすることができるでのでしょうか?まず最初にいえるのは物理的に争うこと(殴り合いなどの肉体的な喧嘩)は問題外だということです。良い喧嘩というのは、意見の相違による言葉による争いです。聖書的な争いというのは、汚いものであってはなりません。

 

あるオリンピックのボクシングの試合で、選手の片方が、審判が休憩時間を宣言したと勘違いしてコーナーの方に戻ろうとしたのを私は見たことがあります。もう一方の選手はそれに見て背後から彼に襲いかかり、彼をノックアウト寸前にまで追い詰めました。これは闇討ち[4] と形容されるべきもので汚いやり方です。マイク・タイソンは、エヴァンデル・ホリフィールドの耳を噛みちぎろうとして失格になりましたが、これも本当に汚い喧嘩の仕方なのです。

 

言い争いが白熱したものとなるとき、多くの人が、ベルトの下を狙う[5] ような行動をとります。クリスチャンのカップルでさえ嫌味や意地悪な言葉を口にし、相手を引きずり落とそうとすることがあるのです。私がカウンセリングを行ってきた何組かのカップルは、喧嘩のたびにひどい罵り合いに陥ることを告白してくれました。空間を氷のような敵意で満たす沈黙による攻撃は、また別の反則行為です。私の育った家庭ではこの方法がよく使われていました。私の義理の父は敵意に満ちた沈黙を家中に充満させ、陰気で敵意に満ちた空間をつくりだすことがよくあったのです。それが数日間も続くことが時にはありました。これは子供たちには残酷なことです。そういった状態にある家に帰ってくるのはとても怖いことです。私の家族はクリスチャンではないのですが、こういったことがクリスチャン・ホームにも起こっていることを私は知っています。

 

 

カップルが争う理由

 

喧嘩というのは聖書的なものなのでしょうか?なぜ夫婦は争うのでしょうか?クリスチャンの夫婦はいつまでも幸せに暮らすはずではないのでしょうか?

 

私たちが対立に陥り、言い争うようになるのにはいくつかの理由があります。まず第一に、カップルが最初にお互いを知り始めるとき、それぞれが自分を実際よりも良く見せようと頑張るということが挙げられます。これによって、様々な度合いでの偽りが二人の間に起こります。第二に結婚する前の二人の関係はそれほど強制力を伴わないものだということが言えます。その関係に留まることもできますし、そこから離れることだっていつでも可能なのです。けれども一旦結婚してしまうと、現実がそこに入り込みます。二人の関係はそこで試されるのです。虚飾はもう通用しません。決定は下され、逃げ出すことも、車に乗って走り去ることももうできないのです。

 

結婚前につきあっている段階だと、本当は好きではないことを我慢することも比較的容易かもしれません。相手に気に入られるためになら我慢することも簡単でしょう。本当は鬱陶しいと思うようなことを平気で受け入れるかのような振りもできます。そしてすべてが上手くいっているかのように見えるのです。

 

妻のダニータと付き合う前に、私もそういうことをやったのを覚えています。5人家族だった彼女の家には洗濯機と乾燥機がなかったので、洗濯物がよく山積みになっていました。それで彼女が衣類をコインランドリーまで持っていって洗濯しなければならないことがよくありました。ボーイフレンドの私としては、彼女と一緒に行く以外にやることがなかったので、−時には3時間以上かかることもあったのですが− 私も彼女と一緒にコインランドリーまで出かけるのでした。彼女と時間を共に過ごしたかったのです。けれども、服が洗われるのを待ち、洗濯物をたたみ、そして仕分けるといった作業全てが実際のところは大嫌いでした。

 

結婚したあとで、彼女があるときこう言いました。

「コインランドリーに行って、洗濯をしましょうよ。」

わたしは、うめき声をあげました。正直な気持ちが出てしまったのです。

彼女はこういいました。

「洗濯をするのが好きだと思ってたのに。」

「いいや。」 と私は告白しました。

「我慢してたんだ。本当は好きじゃなかったんだよ。」

そして、現実がその偽りを粉砕してしまったのです。

 

男性の方は、デートのときに付き合っている女性と海岸に行くことがあるかもしれません。男性の方がサーフィンをやって、それを女性は海岸から見物するのです。結婚してから、その男性は妻となった女性にこう言います。

「ねぇ、海に行こうよ。」

そして彼女はこう応答します。

「ただ砂浜に座ってあなたがサーフィンするのを見るだけなんて嫌だわ。その間何をしろっていうのよ。」

びっくりした男性はこう聞き返すかもしれません。

「昔一緒に行ったときには、君は僕がサーフィンをやるのを見るのが好きなんだと思ってたけど?」

そして彼女は正直な気持ちを告白するのです。

「我慢してただけなのよ。」

 

恋愛段階における虚構が問題となるのは、洗濯やサーフィンのような軽い話の時だけではありません。例えば、結婚前はリーダーシップを取るのに非常に積極的だった男性のお話があります。霊的な分野においても他の場面でも、とても責任感のある人のように彼は見えました。そして彼と付き合っていた女性はこう思ったのです。

「こんな人と一緒になりたいってずっと思ってた。彼ってすごい!」

けれども結婚式のあとで、彼の真実の姿が見えるにつれ、彼女は幻滅してしまうのです。

「素晴らしいリーダーのような人だと思ったけど」 彼女は残念がります。

「物事をリードしてくれると思ったのに、今じゃ私が彼のお母さん役をやっているみたいなんです。」

 

こういう場合に二人の関係が争いを通してもつれてしまうことは、容易に想像がつくと思います。ですから大事なのは争いにどう対処していくのかということなのです。互いの人格を攻撃し、口汚くののしりあうような醜い争いは、敵が好んで使う方法です。やがてはそれが結婚を滅ぼしてしまうことになります。土台はすぐには崩壊しませんが、こういった醜い争いを続けるならば、土台も徐々に弱いものとなっていくのです。

 

土台が弱くなる過程は、波際に建てられた家に例えられるでしょう。嵐がくると、海岸に高波が押し寄せます。家の土台にその波が打ち当たるとき、侵食が起こります。長期的には、侵食によってその家は崩壊して海の中に沈んでしまいます。一度にこれが起こるのではなく、少しずつ起こっていくのです。

 

二つの独立した個性が一つになるときには衝突は避けられないものだということを、理解しておく必要があります。それは自然なことなのです。二つの急な川の流れが合わさって一つになるとき、交わる点で渦巻きが起こります。結婚においてそれを押さえつけ、そしてその力を利用しようとするためには、神様からの御言葉が必要なのです。クリスチャンの夫婦は、争いの中にあっても聖書的な姿勢と態度を保つことができるのです。争っている時にも霊的でいる、ということを学ばなければなりません。霊によって歩み互いの不一致に向き合う時、それは互いの距離を縮めることにもなるのです。

 

争いにはダイナマイトのような効果があります。内側に破裂させることも、外側に爆発させることもダイナマイトには可能です。建物をダイナマイトによって内破させると、瓦礫は一箇所にまとまるように崩れます。逆に外側に爆発させるならば、破片があちこちに飛散するということにもなります。同様に、悪魔が望んでいるのは争いによって結婚を外側に爆発させることなのです。悪魔は争いを用いて夫婦を分かとうとします。神様は争いを用いて二人をさらに近づけようとされるのです。

 

争いを取り扱うための聖書的原則

エペソ人への手紙42532節にはこう書いてあります。

 

「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちは体の一部分として互いにそれぞれのものだからです。

怒っても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。

悪魔に機会を与えないようにしなさい。

盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。

悪い言葉を、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、購いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。

お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなた方を赦してくださったように、互いに赦しあいなさい。」

 

夫婦を互いに近づけるための7つの原則をここで見ていきたいと思います。

 

 

互いに真実であること

 

ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちは体の一部分として互いにそれぞれのものだからです。(エペソ人への手紙4:25

 

嘘を言わず、互いを敬いあうのは大事なことです。ゼカリヤ書の816節には、

「これがあなたがたのしなければならないことだ。互いに真実を語り、あなたがたの町囲みのうちで、真実と平和のさばきを行え。」

と書かれています。

 

問題について結婚しているカップルが話し合うとき、そこにはお互いが100%真実を語っているということに対する確信がなければいけません。正直さを保つという誓約をしないままに結婚してしまうカップルが中にはいます。そして年を経るにつれて正直さが互いの間で持続しないことから、不信感がたかまっていきます。もし、こういった状態があなたの結婚に当てはまるのなら、今が正直であることについて夫婦で合意する機会です。互いに正直であろうという条約を二人の間で結んでください。信頼が壊れてしまっているとき、敵はそこに攻撃のチャンスを見出すからです。

 

二人の関係で正直であるというのはどういう意味をもつのでしょうか?正直であるということは、あなたがあなたの妻と一緒に歩いていて、通り過ぎる女性に目を奪われて不純な思いを抱いた時に、それを全てあなたの妻に告白するということではありません。それは結婚における正直さが意味することではありません。時々サタンは、私たちの前に誘惑をもってくるのです。けれども、私たちの古いからだが思い浮かべたり、悪魔が投げつけてきたりすることによる全ての思いを、私たちの伴侶に告白する必要はないのです。

 

 

正直であるということは、一時的だったり、うわべだけだったりする問題よりも、ずっと深いところにある問題に関わることです。私たちの根本的な性質・性格といったものにそれは関わってくるのです。人は、不真実な性質を選ぶこともできます。エレミヤ書の95節にはこうあります。

「彼らはおのおの、だまし合って、真実を語らない。

偽りを語ることを舌に教え、

悪事を働き、依然として悔い改めない。」

偽りを語ることを舌に教え と書かれているのに注目してください。

子供の頃、私は嘘をつくのがとても上手でした。親のしつけがあまりない家庭に育ちましたので、私の嘘をつく能力は芸術的なまでに進歩していました。高校卒業前の最後の一週間に、私は学校をサボって友人三人とサーフィン旅行に出かけました。学校側が私の欠席を知ったあとで、教頭先生が私を呼びつけてこう訪ねました。

「どこにいたんだ?」

私は、彼の目をまっすぐ見て、純粋さを装いながらこう答えました。

「家にいて、姉の子供たちの面倒を見ていたんです。」

「わかった。もういい。」 そう言って、彼は私を解放してくれました。

 

彼が私の3人の友人を尋問した時、友人たちはサーフィンに行っていたのだと、真実を話しました。

「ビルが運転したんです。」

そう彼らは付け加えました。けれども教頭先生はそれを信じませんでした。

 

「私の目をちゃんと見て、真実を言う人間のことを私は尊敬する。お前たちは嘘をついているに違いない。」 彼はそう言って私を弁護したのです。

 

けれども、ほどなくして彼は真実を知りました。彼が私を再度呼びつけたとき、彼は私の方を見ようともしませんでした。

「お前は退学だ。」

そう彼は宣言しました。

「お前を信じていたのに、嘘をつかれていたというのが今になってわかったよ。」

こうして、卒業を一週間前にして私は高校を退学になったのです。

 

私たちは、自分自身に嘘をつくことを教えるか、真実を語ることを教えるかのどちらかを選ばなければなりません。どちらを選ぶかは、完全に私たちの力にかかっています。結婚関係において相互理解が不足しているのだから、真実を少し曇らせるくらいのことは構わないのだと言う人がいるかもしれません。そうすることで家庭内で平和を保てるじゃないか、と。けれども、新生したクリスチャンはもっと高い基準を持っているのです。聖霊様と真実に逆らって嘘をつくべきではありません。ヨハネの1613節にはこうあります。

「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」

 

私たちのうちには真理の御霊がおられて、すべての真理へと導きいれてくださるのです。私が自分の妻に偽りを言うなら、御霊を悲しませてしまうことになります。私の妻は、私のことを主に委ねているので、私が真実を話すということを知っています。同様にして、私も妻のことを主に委ねているので、彼女が私に対して真実を話すということを知っています。彼女がそうするように、私も彼女とイエス様の関係を見ています。イエス様が私たちの真実さの土台なのです。私たちが御霊から離れてしまうならば、私は真理からも離れてしまうのです。

 

二人の関係は、偽りやずる賢さとも無縁でなければいけません。イエス様はナタナエルについてこういわれました。

「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」

偽りのある人というのは、真実をごまかしたり、隠したりする人のことです。イエス様はナタナエルを見て、実際のところはこう言われたのです。

「この男にはずる賢いところがない。彼は嘘をうまくついたり、真実を隠したりすることのできる人間ではない。」

 

 

私の妻のダニータについて、私も同じことが言えます。彼女のうちには偽りがありません。彼女はとても正直な人です。偽りがない、というのは私たち皆が望むべき性質なのです。イエス様は私たちが、こどもたちのように ならなければいけないと言われました(マタイ18:3)。普通の子供たちには偽りがありません。欺くことを子供は考えないからです。

 

小さな子供が、何かを隠そうとしたり、罪のない嘘をついたりするのを見たことがあるでしょうか?ゴルフボールをその小さな片手に隠して、

「どっちの手にボールがあるかわかる?」

と言いにくるような子供です。もちろん、私たちはボールが無いに決まっているほうの手をわざと選びます。大喜びして、ボールが入っている方の手を開いて子供はこう歓声をあげます。

「こっちでした!」

そして私たちはこう言うでしょう。

「わぁ、見事にだまされちゃったなぁ。」

子供は欺きというものを理解していないのです。

 

私の息子のビリーがまだ小さかった頃、彼がマシュマロの袋に手を突っ込んで、マシュマロを両手に握り締めてドアから出て行こうとしたことがありました。私はその時いすに座って本を読んでいたのですが、彼の手に白い粉がついているのに気づき、彼を呼び止めました。

「おい」

ドアから出て行こうとする彼に呼びかけると、彼はそこで凍り付いてしまいました。

「こっちにおいで。その手の中に何があるの?」

 

「何にもないよ。」

彼はそう言いました。

「見せてごらん。」

彼はそこでこぶしを上にあげました。指の間からマシュマロがはみ出ているのが見えました。

「何を持っているんだい?」

芳しくない状況を前にして、半分罪悪感が混じった笑みを浮かべながら彼はこう告白しました。

「まちゅまろだよ。」

その仕草がとても可愛かったので、私は彼にマシュマロを持っていかせたのでした。

 

真理をぼやかしてしまわない、ということについては、私たちは子供のようである必要があります。聖書にはこう書いてあります。

「幸いなことよ。

主が、咎をお認めにならない人、

心に欺きのないその人は。」(詩篇322)

真実を尽くすことによって、あなたの伴侶を敬ってください。

 

時々、夫婦の片方が過ちを犯して、もう片方をひどく傷つけてしまうことがあります。主の前で、そして傷ついた側の前でそれを悔い改めたあとで、

「悔い改めたのに、どうして彼(彼女)は私のことを赦してくれないのだろう?」

と不思議に思うことがあるかもしれません。こういったことは、赦しの問題ではなく、信頼の問題なのです。信頼は勝ち取るもので、建て直される必要があるのです。これは自動的には起こりません。時間がかかるのです。

 

 

反則行為を避けること[6]

 

「怒っても、罪を犯してはなりません。」 (エペソ人への手紙4:26

 

パウロが、怒りそのものは容認して、怒りによって罪をおかすことを認めていないことに注目してください。時々人は怒りそのものを封じ込めようとします。これは、噴火直前の火山を作り出すようなもので、ちょっとしたきっかけで大爆発が起こることになります。怒ることはしても、怒りによって罪を犯すのは避けられなければいけません。

 

自分の怒りが罪かどうか、どのようにしたらわかるでしょうか?私は過去に、怒って物を投げつけたり、壊したり、ののしりあったり、皮が破けるくらい壁を殴りつけたりする夫婦たちとお話しをしてきましたが、こういったケースが怒りが罪を犯させている例だと思います。怒りがその人を支配してしまうならば、それは罪なのだと言えるでしょう。こういった行いの後には、多くの修理が必要になってきます。壁や家具の修理だけではありません。自分の罪を悔い改めなければならないのです。夫婦は互いにこういった怒りを避けるべきです。互いのたましいを傷つけることになるからです。問題に対処するためではなく、相手の人格を攻撃するための憎しみに満ちた言葉などは、禁じられる必要があります。

 

暴力も決して使わないでください。あなたの伴侶をたたいたり殴ったりするならば、その相手を再び自分の側に立たせるのが困難を極めることになります。聖書の箴言1814節にはこう書いてあります。

「人の心は病苦をも忍ぶ。

しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。」

体の病気は耐えることもできます。けれども、言葉や肉体的な暴力を相手に加えるなら、その相手が立ち直るのはとても大変なことなのです。箴言の1819節にはこうあります。

「反抗する(英語では傷つけられた)兄弟は堅固な城よりも近寄りにくい。」

非常に守りが堅固な城と、その城を陥とすのに必要な労力を想像してみて下さい。大変な困難であることは容易に想像がつくと思います。けれども聖書は、その城を征服する方が、傷ついた伴侶を再度勝ち取るよりも簡単だと書いているのです。

 

自分の手で打ちのめしてしまった伴侶の心を再び勝ち取るためなら、何でもするという人もいることでしょう。けれども、それは主のためにこそ為されなければならないということに心を留めておいてください。主の前にそれは正しいことで、その理由だけが純粋で、永続的な結果をもたらすものなのです。それ以外の理由による行いは、長続きすることはありません。望むべきは、主にあっての悔い改めからくる永続的な変化なのです。過去に傷つけてしまった伴侶を再び勝ち取るということは、忍耐を必要とはしますが、一時的な目的に過ぎません。神様に触れていただくことによって、人生が変えられるところから来るものなのです。

 

私の場合、妻を再び勝ち取るのに約一年かかりました。その間私がずっと

「彼女の心を再び勝ち取るのが私の使命だ。」

と考えていたわけではありません。

実際のところは、私が神様を第一にして、神様の望まれるような人であろうとしていたときに、その間接的な結果として起こったことでした。その時は私はまだその聖書箇所を知らなかったのですが、

「神の御国とその義を第一に求める」

ことを私はやっていたのでした。主だけが生きる目的に値するお方なのだということを知っていたからです。主は真実なる方です。色々な道をそれまでに試してみましたが、すべてが行き止まりでした。結婚生活もひどい状態だったときに、私は主のもとに来ました。私の妻は私をまったく信用していませんでしたので、私のやることをただながめているだけでした。けれども、やがて彼女はこう考えるようになりました。

「彼は変わったわ。子供との接し方がよくなったし、行動の仕方も違う。けれどもこの結婚はやっぱり嫌だし、彼のことも嫌い。イエス・キリストなんてぜったいにごめんよ。」

幸いなことに、神様は私に働きかけておられたのと同時期に、彼女の心にも働きかけてくださっていたので、一年ほど後には彼女もキリストを自分の人生にお招きしたのでした。

 

常に争いは解決しておくこと

 

「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」 エペソ426-27

 

争いを、対処しないままで放っておかないでください。言い争いが二人の間にあるのなら、二人がそれについてちゃんと話し合い(時には言い争い)、解決に持っていくための時間と場所をちゃんと決めてください。小さな争いを軽視してはいけません。そういった小さな分裂が、やがてきのこ雲のような大きな争いの原因になることもあるからです。問題は小さいのだから、追求する価値はないと思われるようなこともあるかもしれません。けれども、あなたの伴侶にとってはそれは頭痛の種で、やがて二人の間で癌になる可能性をはらんでいるかも知れないのです。悪魔は、解決されていない争いを使って様々な悪だくらみを計るのだということを覚えておいてください。

 

時間の都合上、その場で問題に向き合えないこともあるでしょう。そして、あなたはこう言うかも知れません。

「それについては、今は話せないよ。」

そして、あなたの伴侶はこう言い返します。

「じゃぁ、もういいわよ。」

これは良くないことです!しっかりと話し合わなければなりません。さもないと小さなひび割れが、やがては大きな裂け目へと成長することになりかねません。問題にしっかりと向き合うための時間と場所を決めてください。

 

争いを解決するということ自体に合意できないなら、それが壁のレンガの一つとなり、やがてその壁が二人の間を分かつようになります。問題を解決しないままで置き去りにすることを続けていると、月日が経ったときに、壁に囲まれてしまって互いから孤立してしまうことになってしまうのです。

 

過去数年間は、二人の間で持ち上がった争いの全てを、私たち夫婦は解決してきました。二人は常に合意してきた、ということを私は言っているのではありません。けれども、争いに対して私たちは対処し、それを解決してきたのです。合意でなくても、解決に至ることができるならば、あなたの心の温かさや、伴侶に対する愛情はもっと大きなものになるでしょう。

 

「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」

 

こういう言い訳を皆さんは決して使わないでください。

「そんなことは些細なことだから、放っておこう。」

「今は時間がないよ。それに、時間をとって話し合っても、延々と議論が続くだけで欲求不満が溜まるだけじゃないか。」

聖書には、問題にすぐ対処するようにと書いてあります。日が暮れるまで憤っていてはいけないのです。

 

では、これは夜中まで起きていて争いを解決しなければならない、ということなのでしょうか?夜に解決できないのなら、その翌日か、少なくともその週に時間をとってください。時間まかせにして放ったらかしにしたり、忘れてしまったりしてはいけません。

 

 

問題解決に向けて協力すること

「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」 (エペソ人への手紙4:28

 

もし私が、批判の専門家で懲戒に長けていたとして、私の妻が耳にすること全てがそういう内容のことだったとしたら、私は何の価値も彼女にもたらしていません。必要なのは、問題の解決方法であって、その状況に対する助けの手なのです。私のやることが批判だけだったら、彼女は耳を閉ざして何も聞かないようになってしまうでしょう。そして彼女はこう考えるに違いありません。

「またこの人の批判が始まった。私は何一つ正しくやれないんだわ。何をやったって彼を満足させられないのよ。」

そして、これが私たちの思考のパターンとなり、やがて私たちがお互いを見るときの視点へと定まっていくのです。

 

伴侶と問題を取り扱う時は、あなたの伴侶をサポートして、問題を解決するという姿勢を保ってください。上に挙げた聖書箇所は、問題については触れていません。むしろ、人の生活におけるパターンについて述べているのです。使徒パウロは、エペソに昔は盗人だったけれども、救われて今はクリスチャンである人々がいたと述べています。パウロは、

「盗むのをやめなさい!盗人であることをやめなさい!盗みは悪いことです!」

とだけ言うのではなく、

「盗むことを今はやめたのだから、建設的なことをやりなさい。お金を稼げるように労苦し、必要のあるものに分け与えなさい。」

と教えたのです。しばしば、クリスチャンは、「やってはいけない」 ことの多い人々であると見られることがあります。けれども現実には、クリスチャンにはたくさんの 「やるべきこと」 があるのです。

 

自分の性格が、前向きか後ろ向きかを知るための性格テストをやってみます。自分の人生の中の一日を見てみる必要があるのですが、私が実験台になって、結婚初期の私のある一日へと時間を巻き戻してみます。

 

サーフボードを作るのに一日を費やした後で、私は家に帰ってきてこう聞きます。

「俺のサーフィン用の海水パンツはどこだ?」

 

「いつも置いてある場所よ。シャワー室の中。」

そうダニータが答えます。

 

それで、私は自分のパンツをはいて日が暮れるまでサーフィンに出かけます。暗くなって波が見えなる頃になって、ようやく私は家に帰ってきます。そしてこう聞きます。

「晩飯は?」

 

ダニータは私にこう言います。

「家をずっと掃除していたのよ。だからご飯を作る時間はなかったの。掃除機の調子が悪くて、なんとか直そうとしてたの。子供たちのせいで頭がおかしくなりそうだったわ。」

 

「俺は腹がへってるんだ。」

私はそう文句を言います。

「俺は一日中働いて、ようやく家に帰ってきたんだから、今食べたいんだよ!」

 

・・・自分の人生の一部を再生して見せるのは恥ずかしいことです。勝手で自己中心的だった自分を思い出すからです。

 

主は、私たちの本当の性質を私たちに見せることができます。ダニータは3人の子供たちの面倒を一日中見ていました。2歳児、5歳児、そして7歳児の子供と10時間閉じ込められて話の相手をしたことがあるでしょうか?興味深い会話というのはあまりできません。それに加えて、彼女は壊れた家電と散らかった家の面倒も見なければなりませんでした。そこに私が帰ってきて、「晩飯は?作る時間ぐらいあっただろう?」 という質問で彼女をさらに困らせたわけです。

 

文句を言う代わりに、彼女を励ましてこう言うこともできました。

「ねぇ、一日どうだった?」

彼女が、その破滅的な一日について話してくれたなら、彼女を落ち着かせるためにこう言うこともできました。

「そりゃひどい。ここに座っててよ。僕が晩御飯をつくるから。皿も僕が洗うよ。」

問題の上にさらなる問題を積み上げたり、彼女のやらなかったことをあげつらう代わりに、私は彼女の理解者となって、助けの手をさし伸ばすこともできたのです。

 

小切手帳や、銀行の明細、そして金銭的な問題というのが、我が家では常に緊張とストレスの原因でした。批判ではなくて、互いに解決方法を提示しあうことで、夫婦は全面戦争を避けることができます。

 

お金をめぐっての、ありがちな争いは、夫がこういう風に言うことで始まります。

「新しい服を着ているね。お金がない時になんでそういう贅沢をするんだ?」

 

「お金があるかないかなんて、どうして私に分かるのよ。あなたが小切手帳を管理しているのよ。」

妻はそう言い返します。

 

それに対して夫はこう言うかも知れません。

「正確にわかりはしないけれど、大体の金額は頭の中に入っているよ。でも、僕に確認もしないで、いろんなものを買ってくるのは君じゃないか。」

 

そして二人の間で緊張が高まっていくのです。

 

もう少しよい反応の仕方はこういうものです。

「ねぇ、一緒に予算を作ってみようよ。ある金額以上は使わないように二人で決めるのはどうかな。今月は少し厳しくなりそうだから。」

 

コロサイ人への手紙39-10節にはこうあります。

「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、

新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」

家庭内に正しくないと思われるようなことがあるのなら、その時は古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るべきなのです。それは、間違っていることに対する不平を言うのをやめて、その状況を改善するために行動するということです。励ましあうことを心がけ、批判ではなくて問題の解決法を考えるようにしてください。

 

如才なくふるまうこと

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」 (エペソ人への手紙4:29

 

ここで、「悪い」というのは、直訳すると 「腐った」 という意味の単語です。私たちは、口から腐った言葉を出すべきではありません。激しい議論をしている時に、思いつくこと全てを口にするのは非常によくないことです。そして、そんな時に自分の感情の赴くままに行動するのも賢いことではありません。自分の声の調子と舌とをよく見ておくようにして下さい。

 

専門家は、コミュニケーションには三つの要素があるといいます。言葉、声の調子、動作の三つがそれです。実はコミュニケーションの7%だけが、言葉によるものなのです。37%は声の調子によるもの、そして56%は動作によるものです。この三つ全てが一緒になることでメッセージが発せられます。きちんと意思疎通を行うためには、一つ一つが整合性のとれた状態になければいけないのです。

 

あなたの伴侶との間でコミュニケーションをとるときには、鋭敏で如才なくふるまってください。ボーイング747機をハイジャックしたテロリストと交渉をするとしたら、どういう態度をもって交渉の場に臨みますか?夫婦喧嘩のときと同じような話し方で、テロリストと話そうとするでしょうか?もしそうなら、そんな飛行機に乗っていたいと思いますか?飛行機は爆破されてしまわないでしょうか?

 

コミュニケーションの場において、あなたがもたらすものは平和でしょうか、それとも争いでしょうか?私がここで言いたいのはこういうことです。あなたの伴侶に対して、如才なく振舞ってください。言葉をえらび、声の調子と動作とに気を付けてください。そしてそれを守ってください。

 

 

公にしないこと

「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」 (エペソ人への手紙4:31

 

不和を、公の場に持ち込まないようにしてください。伴侶を他の人の前でへこませるようなこともいけません。自分の妻の「分をわきまえさせる」ために、家族や友人たちの前で皮肉をいう男性を何人か過去に見てきました。ある人たちは、公の場は自分の伴侶に恥をかかせることによってその行動を改めさせる為の絶好のチャンスだと考えます。ですから、そういう人たちは意地の悪い批判を他人の前で繰り広げるのです。でも、真実はこうです。他の人の前で格好が悪くなるのは、あなたの伴侶ではなくてあなた自身なのです!。

 

聖書を教えるものとして、私もこの分野に関しては非常に敏感になる必要があります。メッセージを語る際にダニータと私の間の個人的な例を使うことがあるのですが、その前に、私は必ずその問題がすでに解決済みのものであること、そして悪者は彼女ではなく私であることをチェックするようにしています。

 

後に遺恨をのこさないこと

「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」 (エペソ人への手紙4:32

 

イエス様は、私たちが、心の優しく寛大なものとなることを願っておられます。キリストを通して私たちを赦してくださった神様のように、です。ですから、自分の伴侶が穴に落ち込んだような時には、手を差し伸べて引き上げるようにしてください。土をかぶせて埋めてしまってはいけないのです! 伴侶が失敗したら、それを放ったらかしにしておくのではなく、助けてあげてください。また、自分に対して何か過ちを犯したとしても、それを記録に留めておいて、将来別の時に武器として使うような事はしないでください。

 

私たち夫婦は、何年かをかけて家のリフォームをやったことがあります。ある日の夕方、ダニータと私は、新しくできたばかりの排水溝を見上げながら、ジャグジーに入っていました。それを取り付けるために、私が一日中頑張って働いたあとでした。

「水はどこに流れ落ちるの?」

二階の屋根沿いの排水溝を指差しながらダニータが聞きました。

「家のあの端の部分と、この端だよ。」

家の端のほうを指差しながら、私は答えました。そのあとで、私のやったことは必要なことだった、ということも付け加えました。

「排水溝ばっかりになっちゃうじゃない。」 と彼女は言いました。

「でも説明書にはそう書いてあったんだ。そうしなきゃいけなかったんだよ。」

私はそう返事しました。

 

そこで殺し文句が来ました。

「ティンカートイ[7]みたいな家は嫌だわ。」

 

「僕のやった仕事をティンカートイって呼んだな?」 そう私は大声で抗議しました。

「こつこつ作業をやって、早く終わらせようとしているのに。排水溝はそこじゃなきゃ駄目なんだ。他に場所はないよ!」

 

「あそこの岩の周りにやってみたら?」 彼女はそう言いました。

 

その後でいくつかアイデアを出し合いましたが、もはや手遅れでした。ティンカートイと言われたのが癪にさわったので、何を言われても聞く気にはなれませんでした。彼女は、私のやった作業が不器用だとか、不適当だとか言おうとしたのではありません。彼女はただ、美しいとはいえない排水溝のパイプがあちこちから突き出ているのが嫌だっただけなのです。私たちの視点は全く異なったものでした。だんだんとジャグジーの中にいるのが居心地悪くなってきたので、私はそこから出ました。

 

「どういうこと?」 彼女が聞いてきました。

「ジャグジーが熱すぎて我慢できないんだ。」 私はそう答えました。

彼女はしつこくこう言いました。

「どう考えても、あれが正しい状態だとは思えないわ。」

議論が続きましたが、何一つ解決されはしませんでした。

 

私は家の中に入って、聖書のメッセージを書く作業に取り掛かりましたが、全くはかどりませんでした。未解決の問題が家の中に置き去りになっている間は、真の平安はそこにはありません。ですから、私は外に戻り彼女にキスして、私と一緒に散歩に出かけて他の家がどうなっているか見てみないか、と彼女に尋ねました。そして一緒に外に出て、他のティンカートイのような家の排水溝がどうなっているのか見に行ったのです。

 

一緒に歩いて話しているときに、彼女はこう言いました。

「あなたの作業をティンカートイと呼ぶつもりはなかったのよ。プラスチックのパイプがあちこちでぶらさがっているのが気に入らなかっただけ。」

私はこう約束しました。

「そういう風にはならないよ。全部終わったらきっと見事になるから。」

 

私たちは解決法を見出しました。問題に直面した時はいつもそうしなければならないように、ただ一緒になって最善と思われる方法を決めたのです。

 

争いをどうすればやめることができるでしょうか?簡単です。自分が間違った時には、その誤りを認めてください。それをやるのに大きな困難を覚える人もいますが、ここに一度切断されてしまったコミュニケーションを再接続し、破れ目を修復するためのよい言葉があります。

「ごめんなさい。赦してください。愛してるよ。」

もし、語彙力がなくて、こういう言葉は自分の辞書にはないという人がいたら、他の言葉を減らしてでも、上の三つの言葉を辞書に載せておくことをお勧めします。健全で、幸せな関係がそれにかかっているのです。

 

争いがあるときには、自分にもいくらかの非を見出すことができると思います。その非を小さくしてしまうのは賢いことではありません。聖書には、律法の一つの点でつまづくなら全てを犯すのと同じことだと書いてあることを(ヤコブ2:10)覚えておいてください。自分の過ちは過ちとして認めてください。そして、自分の伴侶の非を指摘することは避けてください。相手に自分のやり方を見習ってもらうためにも、まず自分で良いお手本になって、その後で主がどうされるのか見てください。

頭の中で、こう考えることがあるかもしれません。

「自分はごめんなさい、と謝ったけれど、相手はいつになったら謝ってくれるのだろう?」

それはあなたの問題ではありません。聖霊様がなさることだからです。自分の分については責任をとり、相手については神様にお任せしてください。

 

結婚における争いが、あなたとあなたの伴侶だけのものだったら、結果はあまり芳しくないかもしれません。けれども、聖霊様が二人の間におられるのです。結婚した相手よりももっと高いところにおられる方の前に責任があるのだということを知っておいてください。結婚において、聖霊様が働けるようにしてください。

 

 

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[1] ハワイで有名な警察ドラマ

[2] 同じく警察ドラマ

[3] 70年代のテレビドラマ

[4] Blindsiding your opponent

[5] ボクシングにおける反則行為

[6] “No Low Blows”

[7] 細い棒を組み合わせて作る模型のおもちゃ