結婚における霊的戦い -良い結婚を勝ち取るために-   タイトル・ページへ

Byビル・ストーンブレーカー

 

第五章

傷つけられてしまった親密さ

 

「私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や子狐を捕らえておくれ。」 雅歌215

 

 

テーブルの下でのロマンス

(このお話しは、カルバリーチャペルの牧師会議で語られたことのあるものですから、ここでくり返しても大丈夫だと思います。)

 

あるところに、お互いの求めに応じることに困難を覚えている夫婦がいました。そこで彼らは結婚カウンセラーの所に行きました。ソファーの片端に夫が座り、もう片端に妻が座りました。お互いを見るときの彼らは、にらみ合うかのようでした。カウンセラーは所見をこう述べました。

「かなり深刻な問題を抱えておられるようですね。」

その夫婦はぎこちない様子ながらも、互いの関係についてどうにか話す事が出来ました。

 

すべての後でカウンセラーはこう言いました。

「お互いの間の恋愛感情[1]を取り戻すべきですね。お二人とも堅苦しすぎるので、もっとのびのびやった方がいいと思います。今週の宿題は、もっとロマンチックであることと、もっと自然に振舞うこと、そしてもっと互いに自由[2]でいることです。」

 

翌週になって、その夫婦は戻ってきたのですが、今度は互いを熱いまなざしで見つめあいながら手を取り合って座ったのです。前回とは全く正反対でした。にっこり笑ってカウンセラーはこう聞きました。

「わぁ、何をやったんですか?何か素晴らしいことが二人の間に起きたみたいですね!」

 

彼らは互いを見合ってからこう言いました。

「ええ、二人の関係がもっとロマンチックで伸びやかなものになるようにしたんです。ムードのある場所で、ロウソクを灯して食事をしました。彼女が僕の隣に移ってきて、お互いに瞳を見つめあいながら手をつなぎました。とても美しかったです。ロウソクの火が彼女の顔を照らす様はとてもロマンチックで、我々がまだ若かった日のことを思い出しました。そのうちだんだんと情熱的になってしまって、テーブルの下に二人とも滑り込んでしまったんです。」

 

「ということは・・・テーブルの真下で?」

カウンセラーはこう聞きました。

 

「ええ!」

 

「それは本当にのびのびした行動でしたね。それで何が起こったんです?」

 

「すべてが最高でした。」

こう言って夫婦はため息をつきました。

「でも、あのレストランは二度と私たちを入れてくれくれないでしょうね。」

 

 

教会史に見られる姿勢[3]

 

セックスについて語るのは時には難しいことです。けれども、互いの伴侶との関係、そして主との関係とを深めていく中で、セックスについて話すことも徐々に難しくなくなっていきます。

 

昔の教会において、セックスは禁じられたトピックでした。教会史におけるある有名な人たち−チャールズ・ロンバーディン、グレッチェンなど−は、夫婦が性交渉をもつときに(例えそれが生殖のためであったとしても)、聖霊様はその部屋から出て行かれると信者たちに警告しました。別の教会における指導者たちは、聖なる日や時期には神様は性的禁欲を要求される、と強調しました。さらには、木曜はイエス様が連行された日だから、金曜はイエス様が十字架につけられた日だから、土曜は処女マリアの故に、日曜はイエス様の復活を覚える為に、そして月曜は死者の魂の為に、という理由で夫婦が性交渉を持たないように教えたのです(火曜と水曜だけが残ります)。

 

こういう教えに従って生きなければならないのなら、火曜日と水曜日は良い日でなければ困ります。さもないと我々は欲求不満の溜まった夫婦となってしまうでしょう。

 

 

妻の役割

 

夫や妻の役割において秀でることを主は私たちに命じておられます。夫との関係における妻の役割についてまず見てみましょう。ペテロは第1ペテロ3章の14節ではっきりと、このように書いています。

 

「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。

それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。

あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、

むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」

 

妻の注意力は主を中心とした方向に向けられているべきです。神様が内なる美しさを通して働かれることを可能にするからです。夫の霊的状態に関して心配しすぎるべきではありません。むしろ自分の主との関係に集中するべきです。神様が内面を強調されるのは、外面はむちゃくちゃでも構わないということでもありません。

 

主は妻たちに、柔和で穏やかな霊を持つように呼びかけておられます。これは上品[4]で尊敬に値する振る舞いのことです。けれども、この命令に留意するかわりに、自分のやり方を通そうとする女性たちもいます。こういった女性は陰険でしつこく、欺瞞に富んだ[5]存在になりがちです。これは主が女性にそうあってほしいと望んでおられるのとは、全く正反対の性質です。

 

ウェブスター辞書は、欺瞞[6]をこう定義しています。

「自分の望むものを手に入れる為の、不正で陰険な技術」

 

ごまかしを行う傾向のある女性は、こう考えます。

「自分の夫に関しては、神様を信頼することが出来ない。自分自身の手で彼をまともにしなければ。」

 

そういう女性は、不機嫌さや、口を尖らせてすねること、悪だくらみ、そしてセックスを用いて夫をコントロールしようとします。時には嘘をつくことさえあるかも知れません。そういった方法が上手くいくこともあるかも知れません。けれどもすぐに、そこには何ら永続的な変化がないことを彼女は見出します。それは、夫を変えたりコントロールする自分の能力を、彼女が信頼してしまっているからです。彼女はさらに、自分の伴侶の変化が永続的なものでないことを発見するだけではなく、自分の欺瞞が、二人の関係を破滅に追いやりかねないということを知るのです。それが神様に栄光を帰すようなことも、当然ありえません。あなたの言葉ではなく、柔和で穏やか(平和)な行いによって、あなたの夫は勝ち取られることが出来るのだということを覚えておいてください。神様の手によって彼が変えられるようにしてください。自分の手で彼を−特にあなたとの性的な関係において−変えようとするのは、不可能(ミッション・インポシブル)なことなのです。

 

何年間も親密な状態を経験していない夫婦たちに対して、私はカウンセリングを行ってきました。彼らがこういう風に言うのも耳にしてきました。

「私たちが過去一年間一緒になったのを数えるのには、片手で十分です。」

セックスが、結婚における問題の解決になるようなことはまずありませんが、それでも夫婦関係の健全さを図る良い物差しにはなりえます。上に述べたような場合は、何かが上手くいっていないことのシグナルです。解決されていない争いがあるのかも知れませんし、片方がセックスを何か別のものを手に入れる為の手段としているのかも知れません。こういった状態が良い実を結ぶことはありません。

 

 

夫の役割

 

過去に内面を美しく飾った女性の例として、ペテロはサラを挙げていますが、男性に対してはこう書いています。

「妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。

最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。」 (第一ペテロ378節)

 

夫のアプローチは、妻のそれとはかなり異なったものです。男性が自分のやり方を通すために用いるのは、権威や威嚇といったものです。彼は物事を強制する存在としての役割を担い、過程で自分の意思を押し通そうとします。第一ペテロの37節になんと書いてあるか、もう一度注目してください。

「妻が・・・自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活しなさい」

立場が弱くなると、男性は威嚇に訴えることで自分の意思を通そうとします。主の方法は−男性が自分自身についてどのように感じていたとしても−常に同じです。夫はしもべであるべきであり、言い訳をしない存在でなければいけないのです。夫は理解するべきなのであって、妻に要求するべきではありません。男性がその妻に対して居丈高に振舞う時[7]、彼は主にあって妻を導いてはいません。こういう種のリーダーシップのもとでは、妻である女性は怯えてしまうか、反抗的になってしまうかのどちらかです。権威による強制は、悪い実を結んでしまいます。結婚生活のセックスという部分で神様がご計画されていることは、夫が優しさではなく暴虐によって家庭を治めようとしている間は決して実現することがないでしょう。

 

 

弱い器を愛しむこと

 

ペテロは、女性が弱い器であると述べました。弱いということを、価値の劣るということと混同しないようにしてください。ペテロは女性は価値の劣るものだとは言っていないのです。次のような例を用いて説明してみましょう。コーヒーのカップにはいろいろな大きさや形があります。皆さんにも自分の好むスタイルがあると思います。ある種のカップは分厚くてごつごつしています。とても重たいので、両手で持たなければいけないこともあるかも知れません。別の種の陶器は、薄くて繊細な、青磁でできたカップです。上品でスタイルの良いものです。どちらのカップも、コーヒーを飲むという目的を果たすという点では同じです。けれども、分厚くてごつごつしたカップと、薄くて繊細なカップとを互いにぶつけ合ったら、どちらが壊れると思いますか?もちろん、弱くてデリケートな方のカップです。同様に、男性がその妻である女性と衝突する時、感情的に傷つきやすく、たましいが砕かれやすいのは女性の方なのです。

 

神様が、女性は弱い器であるということを宣言されたとき、それは単純に二つの性が互いに異なるものだということを意味していたのです。政治的に正しい社会はそれを否定しようとしますが、とても危険なことです。

 

女性は、男性とは異なる創られかたをしています。女性は自分の周囲に対する洗練された感覚をもっています。自分の周りで起こっていることに対して敏感なのです。女性の感情はとても鋭敏ですが、男性はそうではありません。どちらかというと男性はごつごつしたコーヒーカップなのです。女性の心の琴線に触れるようなことも、男性の感覚には容易には届きません。女性を傷つけるようなことが、男性の感情を傷つけるとも限らないのです。ですから、家庭の中で衝突が起きる時に、男性は注意を払わなければなりません。女性を打ち砕く力と、相手を守る力の両方とを男性は持っているからです。自らの感情や必要がやさしく丁寧に、そして大切に扱われた時に、はじめて女性はそれに反応していくことができるようにつくられている、ということを私たち男性は理解する必要があります。女性は命令や要求には上手く反応できませんが、男性が理解をもって接すれば積極的に反応することができるのです。妻にはやさしく接するようペテロが教えているのも、こういった理由によるのです。

 

 

ポルノグラフィーが寝室にもたらす悪影響

 

威圧することを通して、寝室における自分の望みを満たそうとする男性は、まずい状態にあります。[8]

ある男性たちは、セックスの際に不合理で愚かな要求を妻に対して発します。カウンセリングの場で男性たちが、若い頃に覚えた性的なファンタジーを満たす(時にはポルノグラフィーを伴う)ために妻を使おうとした、と告白するのを目にしてきました。

 

「セックスの時に、アダルトビデオを見てもいいですか?」

と私に聞いた男性と、そのガールフレンドの結婚式を、私は最近執り行いました。その質問に対する私の答えは、

「君の奥さんを駄目にしてしまいたいなら、やってみれば。君は刺激を受けるかもしれないけど、彼女のことを滅ぼしてしまうよ。そんなことをしたら、信頼も親密さも二人の間には生まれないよ。」

というものでした。彼らに対して私が行った結婚前カウンセリングでは、ポルノグラフィーを取り扱っていなかったので、この時の質問は私を大変驚かせました。この男性の性癖を前もって知っていたなら、二人を結婚させ、女性を危機に陥れるようなことはしなかっただろう、と思います。

 

男性が、自分の作り出した性的幻想の中に妻を巻き込もうとするとき、女性は自分が安っぽく見られ、利用されていると感じます。夫が自分の好色な欲望を満たすための道具として妻を利用する時、彼女の女性として、そして妻としての自己価値は傷つけられてしまいます。一度始まってしまうと、これを止めるのは容易ではありません。時速160キロで走行中の電車のように、スピードを落とすのに時間がかかり、すぐには停止できないのです。ポルノグラフィーに関わっている男性には、価値のある深い関係を妻と育むことはとても困難なことです。恋愛は、幻想と生々しい肉欲に取って代わられてしまいます。女性に対して感受性と優しさを示すのは、こういう男性にはとても困難なことです。二人の関係から生まれる深い満足感と本当の親密さは、捉えどころのないものになってしまいます。

 

神様は私たちを体、精神、たましいの三つでつくられました。神様の御霊によって新生する前、私たちは体の欲求に支配されていました。新生によってそれが逆転したのです。たましいが最上位にあり、神様はたましいを用いて私たちを導き、私たちの主となることを望んでおられます。[9]

クリスチャンである私たちは、キリストにあって完全なものです。たましい、精神、体が一つとなって新しきものとなったのです。聖書には

「古いものは過ぎ去って」 (第2コリント5:17

とあります。本当の満足は、古くて人工的なものからは得ることができません。私たちの性的な部分も、この古くて人工的なものの一部なのです。結婚に神様が介在される時、そこにはキリストを受け入れる前に受けたどのようなダメージも凌ぐような深い親密感があります。神様がセックスをおつくりになったのだということを覚えておいてください。私たちがキリストにあって生きるなら、この世のどのようなものも、空想のイメージも、神様からのお約束に適うようなものではないのです。

 

 

結婚における親密さを実現するための原則

 

聖書の原則を堅く守ることは、結婚における親密さをはぐくむのに有益です。ここでいう原則とは、親密さを与える代わりに取り去ってしまうようなこの世の習慣や、誤解を正すためのものです。以下に述べる指針は、御霊にあって夫婦関係を歩み始めたカップルや、最初のころはキリストを受け入れていなかったようなカップルに応用できると思います。

 

ダニータと私は、結婚前に3年間ほど付き合っていました。二人とも神様を喜ばせるような生き方はしていませんでした。ようやく結婚した時、二人の関係における道徳的基盤はぼろぼろになっていました。救われた後になって、神様の望まれている親密さというものがあることに気づき、それに関する主の導きを求めるようになりました。下に述べるのは、親密さの青写真のようなものです。

 

 

神様を敬うような視点で、セックスを取り扱うこと[10]

 

私たちは、セックスに対して正しい姿勢を持つ必要があります。アダルトビデオに影響されたようなセックス観があるならばそれをリセットし、信仰を伴ったものへと変えていく必要があります。実際のところ、神様以上にセックスについて知っているという人は存在するでしょうか?神様がそれをつくられたのです。あなたがもし車を買って、6ヵ月後にそれが故障をおこしたらどうするでしょうか?ジャンク・パーツ屋にではなく、ディーラーのところにいくでしょう。同じことが、ポルノグラフィーに関わっている人にも言えるのです。彼らは、セックスのジャンク・パーツ屋で買い物をしています。ディーラーである神様のもとに戻る必要があるのです。

 

セックスと神様という単語が同じ文章の中に出てくるのを嫌う人たちがいます。悪魔はそういった状態を好むようです。というのも私たちが日常で耳にするセックスという言葉は、メディアやその他神様を知らない人たちから出ているからです。彼らは、セックスという言葉を、性の解放の名の下で乱交やポルノグラフィーを奨励するために用います。この結果、クリスチャンでさえもが、セックスや結婚について常に健全な意見をもてないような状態が起きてしまいます。そこにあるのは、この世的なセックス観か、セックスを忌み嫌うような観点かのどちらかで、不幸なことに両者の間には何も存在しないのです。神様は、結婚している夫婦がセックスを通して楽しみ、喜ぶことを望んでおられます。夫婦が肉体的な関係について健全な視点を持つことは、神様が用意されておられる物事を達成していく上で非常に重要なことなのです。

 

家を建てるときには、まず最初にしっかりとした設計図が必要です。そして、土台をすえる前に内装に手をつけるようなことも我々はしません。結婚においても同じことが言えます。セックスに関する部分は、内装のようなものなのです。土台がすえられてから行われなければなりません。神様の計画、あなたの頭のうちにあるもの、それらがしっかりして始めてベッドの上での喜びが得られるのです。

 

聖書には、私たちが神様に似せられてつくられた、とあります。これは、神様が私たちを品位と価値のあるものとしてつくられたということです。また、神様は人が性欲と深い親密さを作り上げる能力をもつようにつくられました。けれども、同時に我々の性欲が満たされるための条件もおつくりになられたのです。神様が計画されたのとは違うやりかたで性的な満足を得ようとすると、満たされることがなく、欲求不満がたまって、ソロモンのような状態になってしまいます。ソロモン王には700人の妻と300人の妾がいましたが(つまり、1000親密な関係です)、彼はそれでも満たされていなかったのです!なぜでしょうか?それは、彼が誤った文脈の中でセックスを用いようとしていたからです。

 

使途の働きの10章で、使徒ペテロは、天から大きな敷布が四隅をつるされて地上に降りてくるという幻を与えられました。その中にはあらゆる種類の四足の動物や、這うもの、空の鳥などがいました。主はこう呼びかけられました。

「ほふって、食べなさい!」

けれども、ペテロは

「主よそれはできません。私はまだ一度も、清くない物や汚れた物を食べたことがありません。」

と言いました。

主はこう告げられました。

「私がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」

 

神様は、すべての食べ物はきよいということ、そしてもっと広い意味では、ユダヤ人と異邦人との仕切りがなくなったことについて語られたのです。この意味を、もう少し広げてみましょう。もしかしたら皆さんは、セックスが人生の大きな問題点になっていたような経験の持ち主かもしれません。セックスを連想させるようなものはすべて、罪深い生活や、不品行で汚れた思いにつながるかもしれません。こういったことを考え始めると、それをやめるのは容易ではないかもしれません。けれども一つ知っておいていただきたいのは、皆さんがキリストにあって新しくされた者であるのと同じように、皆さんのなかの性的な部分も、神様があたらしくされたのです。「主がきよめたものを、きよくないと言ってはならない」のです。

 

私は救われる前に非常に淫らな生活を送っていた夫婦を知っています。彼らは救われ、互いに出会い、そしてクリスチャンとして結婚しました。後になってカウンセリングの中で、彼らはこう告白しました。

「性的な関係を私たちは楽しむことができません。というのも、過去に付き合ってきた人たちとのいろいろな思い出や考えが頭の中から消えないからです。」

過去の人間関係からくる汚れた思いは、クリスチャンの夫と妻という関係に対して神様が用意してくださっている物事を破壊してしまいます。頭の中に入ってしまったものをきれいにするのには時間がかかります。けれども、神様には

「聖霊による、新生と更新との洗いをもって」(テトス3:5

私たちの思いを新しくしてくださることが可能なのです。20年が過ぎましたが、この夫婦は今では子供にも恵まれ、とても幸せな結婚生活を送っています。

 

 

セックスが喜ばしいものとなるようにすること

 

聖書には結婚におけるセックスの喜びについて率直に述べられています。実際、私はよくジョセフ・ディローによる「ソロモンとセックス」という本を夫婦が読むように薦めます。この本は雅歌について書かれたものですが、ソロモンと、ソロモンが愛したシュラミテ人の女性との愛の生活を、多角的に取り扱ったものです。

 

箴言の515節にはこうあります。

「あなたの水ためから、水を飲め。

豊かな水をあなたの井戸から。」

作者は、性的な経験について語っているのです。自分の水ため(自分の妻や夫のことです)に行き、水を飲んでください。箴言の519節にはこう書いてあります。

「その乳房がいつもあなたを酔わせ」

これは文字通り、性的に満足することを、自分に許すということなのです。自分が性的満足を得るように許すのは、自分の伴侶との関係においてだけなのだ、ということを心に留めておいてください。

 

雅歌の第5章で作者は、妻の夫に対する愛と、夫とともに妻が味わう喜びとを描写しています。彼女は自分の感情を言葉で表しています。結婚生活で、自分たちの感情を言い表すことはとても重要だということを、覚えておいてください。

 

女性はこう言います。

「私の愛する方は、輝いて、赤く、

万人よりすぐれ、

その頭は純金です。

髪の毛はなつめやしの枝で、烏のように黒く、

その目は、乳で洗われ、池のほとりで休み、

水の流れのほとりにいる鳩のようです。

その頬は、良いかおりを放つ香料の花壇のよう。

くちびるは没薬の液をしたたらせるゆりの花。

その腕は、タルシシュの宝石をはめこんだ

金の棒。

からだは、サファイヤでおおった象牙の細工。

その足は、純金の台座に据えられた大理石の柱。

その姿はレバノンのよう。杉のようにすばらしい。」(雅歌5:10-15

 

同様に、ソロモンはその美しい花嫁を7章で描写しています。

「高貴な人の娘よ。

サンダルの中のあなたの足はなんと美しいことよ。

あなたの丸みを帯びたももは、

名人の手で作られた飾りのようだ。

あなたのほぞは、混ぜ合わせたぶどう酒の

尽きることのない丸い杯。

あなたの腹は、ゆりの花で囲まれた小麦の山。

あなたの二つの乳房は、ふたごのかもしか、

二頭の小鹿。

あなたの首は、象牙のやぐらのようだ。

あなたの目は、バテ・ラビムの門のほとり、

ヘシュボンの池。

あなたの鼻は、ダマスコのほうを見張っている

レバノンのやぐらのようだ。

あなたの頭はカルメル山のようにそびえ、

あなたの乱れた髪は紫色。

王はそのふさふさした髪のとりこになった。

 

ああ、慰めに満ちた愛よ。

あなたはなんと美しく、快いことよ。

あなたの背たけはなつめやしの木のよう、

あなたの乳房はぶどうのふさのようだ。」(雅歌7:1-9

今日私たちが、私たちそれぞれの伴侶を表現するのとは少し異なった言葉かもしれません。ソロモンとこのシュラミテの女性は、当時は日常的だった詩的な言語や表現を、互いについて表現する為に用いました。聖書の中ではよくあることです。使徒パウロは、ピリピの牢獄の中でローマ人の守衛に鎖につながれて過ごしたことがありましたが、それを通してエペソ人への手紙の6章にある神の防具についての描写を得ました。パウロは、ローマの兵士が日常的に身につけている防具を例にして、我々の霊的な防具を描写したのです。例えば救いのかぶと、正義の胸当て、などです。同様にして、雅歌の詩は、日常的な題材を用いて、男性とその妻との間の恋愛を描写したのです。日常ありふれたものを、美しいものへと昇華させながら。

 

箴言の518節から20節にはこうあります。

「あなたの泉を祝福されたものとし、

あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。

愛らしい雌鹿、いとしいかもしかよ。

その乳房がいつもあなたを酔わせ、

いつも彼女の愛に夢中になれ。

わが子よ。あなたはどうして他国の女に夢中になり、

見知らぬ女の胸を抱くのか。」

不品行を通して満たされることはできません。一つの関係から、また別の関係へと移っていくだけなのです。

 

自分の伴侶が、自分を満たすことができるように、意識的に選択していく必要があります。夫と妻は、錠前と鍵のようなものです。片方だけでは何の役にもたちません。結婚における霊的な戦いについて考える時、私たちは、足場をまず壊そうとするサタンの策略を理解する必要があります。こういった策略のひとつは、自分の結婚は退屈かつ陳腐で、自分の伴侶は昔そう思っていたほど特別な人ではない、とあなたに思い込ませることなのです。

 

こういった傾向に身をゆだねてしまことは、神様がユニークで唯一のものとしてつくられたことを、ありふれたものに変えてしまうことです。その後に不満と満たされない気持ちとが続きます。人が、その伴侶に対して不満をつのらせるとき、その根源には神様への不満が存在します。それは神様のご計画と、神様が結婚生活において働かれるということへを否定するような思いです。そして、やがては神様が結婚を完成したものとしてくださること、そして夫と妻というそれぞれの役割において二人を成熟へと導いてくださるということから目を離してしまいます。ですから、敵のこういった巧妙なやり方を警戒してください。

「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたから逃げ去ります。」 (ヤコブ4:7)

 

 

セックスを、結婚の内側にとどめておくこと

 

セックスは結婚のうえに行われるものであり、結婚外や結婚式の前に行われるべきものではありません。婚外や婚前にセックスを行うことは、罪悪感と恥の意識をもたらし、自分の伴侶に対する敏感さを鈍くしてしまいます。今日のリベラルな社会がなんと言ったとしてもです。もしカップルが、婚前にセックスをしてしまったなら、妻のほうは自分が待つに値しない存在であるかのように感じるでしょう。家庭のかしらであるべき存在が自分のことを裏切ったかのように感じるのです。こういったケースではしばしば、結婚後の家庭を女性が支配する傾向が見られます。なぜならば、信頼が損なわれてしまったからなのです。神様は、妻が夫に反応するようにつくられました。結婚前の期間にセックスを行うことで、男性が自身を信頼に値しないものとしてしまうなら、結婚後の家庭や彼女の安全について、妻が夫を信頼していくのはとても難しくなってしまいます。自然に、妻は自分自身を守ろうとして、家庭においても主導的な役割を果たそうとするようになります。夫が長い時間をかけて、主にあって家庭を導いて行こうと示し続けることで、ようやく解消できるものです。一般的には、支配的な妻に対して夫の方がとても受動的になってしまう、というケースが多いようです。男性側は、貧弱な霊的かしらとしてこの種の問題を作り出してしまい、それを継続するとすれば、それは破滅的な行為なのです。

 

妻は、必要であれば主導権を握ります。夫モーセに欠けている部分を補う存在であったチッポラ(出エジプト記4:24-26)のように、それを心地よいものとは思わないかもしれませんが、家庭を守る為にそうするのです。妻が攻撃的になるにつれて、夫のほうは自己主張ができなくなっていきます。そして、それが危険なサイクルを生み出します。こういった不安定さはしばしば、結婚前のセックスにその原因を見出すことができるのです。

 

雨と太陽の光とは、木がすくすく育つのを助ける役割を果たします。けれども同じものによって、物が腐ってしまう場合もあります。同じように、セックスが神様の結婚に対する計画から外れた用いられ方をするとき、それは二人の関係を腐らせ、苦々しさをもたらすことがあるのです。新婚期間がずっと続いて欲しいと願うなら、聖書的なセックスを行ってください。

 

 

正しく行う

 

婚前交渉をすでに行っている人はどうすればいいでしょうか?神様はあがなわれる方だということを思い出してください。神様は最悪の状況をも打開することのできるお方です。それはこの場合も同じです。

 

最初に、神様に対して罪を犯したのだということを認めてください。神様はあなたをつくられ、あなたに一定の能力をお与えになった方です。性欲はその能力の一つです。それがあなたの人生において使われるための規定も、神様がお定めになりました。それは結婚の後にのみ使われるべきものなのです。この神様の規定の外へ踏み出してしまったのなら、それは罪なのです。神様に自分のしたことを告白してください。神様は赦して下さいます。第一ヨハネの19節にはこうあります。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

 

第二に、自分の相手に対しても罪を犯したのだということを認識してください。

「同意の上でやったんですよ。僕と同じぐらい彼女もやる気だったんだ!」

と思うかもしれませんし、それが真実かもしれません。けれどもそれは、あなたが相手のもとに行って結婚における根本的な規範を破ってしまったことについて赦しをこうことの責任を、少しも軽くするものではありません。次のような祈りが、神様の御前と相手の前に進み出る時に助けになるかもしれません。

「天のお父様、結婚におけるあなたの完全な計画にそわないことをしてしまいました。ごめんなさい。私は罪を犯しました。全責任を私が負います。」

 

そして、次の祈りを声に出して互いに祈ってください。

「愛する人よ、私たちの関係において、私が神様を第一としなかったことを謝ります。自分の情欲をコントロールせず、むしろ状況を利用したことを赦してください。神様に対して、そしてあなたに対して罪を犯しました。ごめんなさい。愛してるよ。どうか赦してください。」

 

一度これを行えば、次にあるのは全く新しいスタートです。前を向いて、神様がなさろうとしておられる素晴らしいものごとに目を向けてください。罪を隠すなら、それは膿んだ傷となって、あなたの関係を滅ぼすことになります。箴言の2813節にはこうあります。

「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。

それを告白して、それを捨てる者は、

あわれみを受ける。」

神様は素晴らしいことをあなたの結婚において計画してくださっています。単純に神様の方法に従ってください。

 

 

自分の感情の中で利己的にならない

 

私たちの愛情は、自分を喜ばせることを主な目的としてはいません。私たちは、相手の満足に専心するべきです。自分が満たされることを追求するのは自然なことですが、そこで終わってしまうのは聖書的ではありません。神様は、完全な性的満足感を、双方が満たされることで始めて味わえるように私たちをつくられました。第一コリント73節にはこうあります。

「夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。」

この箇所は、私たちが自分を喜ばせることだけでなく、自分の伴侶をもセックスにおいて喜ばせるように示しているのです。

 

 

相手からそれを奪ってしまわない

 

性欲についてそうであるように、自分の相手を拒絶しない、ということについても神様の定めがあります。

「互いの権利を奪い取ってはいけません。ただし、祈りに専心するために、合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょになるというのなら構いません。」(第一コリント75)

自分の伴侶への仕返しや、自分の望むものを手に入れるためにセックスが用いられるようなことは、決してあってはなりません。セックスという、神様が結婚に伴う自然なこととしてつくられたものに対する興味がなくなってしまうとすれば、それはもっと深い問題の兆候です。もし二人が、霊的もしくは肉体的な理由から性的な関係をもつことを絶つのならば、この聖書箇所が示すようにそれは短い期間でなければいけません。例えば、共に祈り断食する為に、禁欲することに二人で決めるようなことがあるかもしれません。そういった場合のことを、パウロはここで述べているように考えられます。それよりももっと長い間性的関係がもたれていないのならば、そこには問題があります。それは夫婦にとっては不自然なことで、敵はそれを用いて二人を誘惑しようとするでしょう。

 

 

性別とセックス

 

女性にとって性とは何を意味するのでしょうか?女性にとっては、自分の夫が自分とのセックスを通して満足することからくる、自己受容がとても重要なことになります。彼女はこう考えます。

「私は彼のことを満足させているだろうか?私と、私の体を通して彼はセックスに喜びを得ているだろうか?」

彼女がそう感じられないとすれば、二人の関係には問題が生じてきます。

 

脳が、女性のセックスにおける司令塔です。そして次に挙げるのが、女性に影響を与える三つの分野です。

 

1.セックスについてどう考えているか

セックスについて健全な姿勢を持っているでしょうか?私は「セックスに対してノーと言いなさい」と頭に刷り込まれて生きてきた女性を知っています。彼女は新婚旅行に行く準備ができていませんでした。花嫁としてそれが当然のことになっても、それでもまだセックスをOKすることができなかったのです。

 

2.自分自身についてどう考えているか

自分のことを低く見ているでしょうか。それとも、彼女は自分自身が

「奇しく、恐ろしいほど」(詩篇13914)

に神様がおつくりくださっている、ということを適切に理解しているでしょうか?

 

3.自分の夫についてどう考えているか

これは、女性にとっては非常に重要な問題です。自分の夫は無能な人間であると妻が考えているとしたら、寝室での時間はうまく運びません。自分の夫に対して批判的な態度を抱いているとしたら、それが二人の性的関係にも顕れてくるのです。神様が用意されたような満足感は幻想に終わってしまいます。ピリピ人への手紙48節ではこう教えられています。

「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳といわれること、、賞賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」

私たちの考え方のパターンが変化していけば、愛もそこから育つのです。

 

自分の夫のことをどのようにお考えですか?彼が上手にできることに思いを集中させ、自分をいらいらさせるようなことについては祈ってください。二人の愛の関係が停滞状態に陥ってしまう時には、自分の夫について自分がどのような考えを抱いているか吟味して、必要であればそれを変えるようにしてください。批判を言うのではなく、褒めるようにしてください。人が自分の思いを変え、行動をも変えるとき、それはその人の性的関係に大きな影響をもたらすのです。

 

男性にとっては、性は視覚を通して刺激されるものです。男性は相手が何を考え、感じているのかということにはあまりとらわれません。彼のWエンジンWは、見ることによってスタートするのです。妻のほうは、性的関係を感情が経験するものと考えますが、男性はそれとは全く異なっています。女性がベッドに入るだけのために服を脱ぐという行為が、それを見ている男性には“彼女は僕を欲しがってるんだな”と昂ぶらせることになるのです。これは相互の間の完全な誤解です。

 

男性は視覚を通して刺激をうけますが、ポルノグラフィーはそういう男性の妻への欲望を殺してしまいます。なぜならば、神様は人を関係を築くようにつくられたからです。ポルノグラフィーには何の人間関係も存在しません。画像を構成するフィルムや、紙の上のインクと親族関係を結ぶことなどできないのです。こういう行為は完全に非現実的で、自己満足的[11]なものです。現実に幻想が取って代わってしまいます。結婚している男性には、性的関係を持つことのできる女性を妻として神様が与えてくださっているのです。ポルノグラフィーが崇拝の対象になっているのなら、今すぐそれを捨てて、神様の御言葉と妻への愛情によって、自分の頭の中に蓄積されたイメージを洗い流す作業を始めてください。

 

ディズニーランドは、おとぎの世界として知られています。一日をそこで過ごしたなら、

「ほんと、ここに住めたらいいのに。とても楽しいし、魔法や不思議なことが一杯だよ。」

と言う人もいるかも知れません。

「アニメのキャラクター達が周りを歩いていたり、夜にはライト・ショーがあったり、音楽がいつも流れているんだ。テントを買って、この魅惑的な場所に住もう。現実の世界はもういいや。ディズニーランドにこれから住むんだ。」

けれども、それらはすべて、おとぎ話[12]で、非現実的な想像の産物なのです。それに、すぐに帰るように言われてしまうでしょう。そこに住むことはできませんし、現実の世界に戻らなければならなくなるのです。ポルノグラフィーによる性的な幻想もこれと同じです。そこに住もうとする行為は、あなた自身と、あなたの伴侶との関係とを滅ぼしてしまいます。これこそが、聖書に

「あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。・・・いつも彼女の愛に夢中になれ。」(箴言518-19)

と書かれてある理由なのです。ポルノグラフィーは、結婚に過酷な重荷を強いる、倒錯の底なし沼のようなものなのです。

 

ポルノグラフィーへの性的依存は、ヘロインなみに強力なものになることもあります。それを用い続ける時間が長ければ長いほど、そこから抜け出すための労力も多大なものになります。私の教会である男性が “神様への依存”というクラスを始めましたが、ここでの内容は薬物依存やアルコール中毒を取り扱うものです。けれどもそれを性的な中毒にも応用することができると思います。その習慣から抜け出すためには、たっぷりと時間をかける必要があります。しばしば、男性間の集まりで定期的に状況を説明することや、牧師のカウンセリングが必要となります。

 

最後に、我々と主イエス・キリストとの関係が、幸せな結婚生活の核となる部分です。キリストを救い主として受け入れ、自分の人生を明け渡した時に、私たちは御霊によって歩み始めました。そしてそれをその後も続けていく必要があるのです。それが我々の性的な部分であろうと、結婚における他の問題であろうと、それを主にゆだねることもできますし、我々の肉によってもがき続けることもできるのです。

 

自分の望むものを手に入れるための手段としてセックスが用いられるようなことは決してあってはなりません。夫婦のベッドは、意思相違から争ったり、自分の望むものを手に入れるための場所になってしまってはいけないのです。主に属しているならば、家庭が主にあって治められるのは主の御心なのです。夫婦が互いに影響力を及ぼそうとして争うような場所があってはいけません。過程において唯一の支配力を持っておられるのは聖霊様だけです。

 

自分の妻や夫を、主の支配の下に完全にゆだねていますか?それともまだ、相手のことを変えようとしたり、自分の意思を相手の人生の上に押し付けようとしていますか?悪魔はこう言います。

「自分のために生きなさい。支配権を握りなさい。踏み込んでいって変えてしまいなさい。」

同じ嘘を、彼はエデンの園でイヴに対して用いました。そして、機会を与えてしまうなら、彼は同じ嘘をあなたに対しても用いるでしょう。けれども神様はこうおっしゃいます。

「私は決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル135)

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」(ピリピ213)

 

サタンの結婚に関する嘘を信じることを止め、私たちの人生の中にある神様の赦しと愛とに身をゆだねるなら、超自然的なことが起こります。それは、神様が

「私たちの願うところ、思うところのすべてを超えて豊かに施すことのできる方」(エペソ320)

だからです。

 

 

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[1] Romance

[2] Free-Flowing

[3] Attitudes in Church History

[4] Chaste

[5] Manipulative

[6] Manipulation

[7] When a man lords it over his wife

[8]The man that tries to use intimidation to get what he wants in the bedroom is in for a rude awakening.

[9] God has made us body, soul, and spirit. Before we were born again of the Spirit of God, we were controlled by our bodily appetites. Now there has been a reversal. The spirit is uppermost and God wants to use that to lead and control our lives.

[10] Hold a Godly view of sexuality

[11] Self-absorbing

[12] Fantasy