結婚における霊的戦い -良い結婚を勝ち取るために-   タイトル・ページへ

Byビル・ストーンブレーカー

 

第六章

戦いの前の祈り[1]

 

祈った後であれば、私たちは多くのことを為すことができます。

けれども祈る前は、祈ること以外に何もできないのです。

 

あなたが急いで旅に出なければならいとします。家に電話して、留守中の家事をについていろいろと指示を出さなければなりません。あなたの最初の指示はなんでしょうか?どんな優先順位をあなたはお持ちでしょうか?犬のえさ、ドアに鍵をかけること、植物に水をやること、猫を外に出すこと、それともポストから郵便をとってくることでしょうか?リストの最初に来るのは何ですか?

 

第一テモテの手紙は、使徒パウロが、エペソの教会を牧すために彼が派遣した若き同労者に向けて書かれたものです。テモテに対して、パウロはクリスチャンが神の家庭にあってどのように振舞うべきか書き記したのです。根本的に、パウロはここで、家に“電話”して、神様の家にあって何が優先されるべきか、個人個人の人生や結婚生活の中で、そして教会にあって何を第一としていくべきか、そういったことについて話しているのです。パウロはこう書いています。

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。

それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」(第一テモテ21-2)

 

“勧める”ということばは、とても重要な意味を持っています。私たち全員にそれは語りかけます。まず、パウロがここでどれほど情熱的になっているかを感じ取る必要があります。それは、あたかもパウロ自身が近寄ってきてあなたの肩に腕をまわして彼のもとに引き寄せるようなものです。この言葉の意味するところは、“話しかけ、忠告したり戒めたりすること”なのです。大事な試合で、コーチが選手を呼び寄せ、勝つための戦略を熱心に教え、注意しているような場面を想像してみて下さい。

「こっちに来なさい。君はこのチームの要なんだ。このゲームには勝たなきゃいけない。ほらこれが作戦だよ・・・。」

それこそが、“勧める”という言葉の意味することなのです。

 

これは、人がベンチに腰かけて、コインを上に放り投げて裏表を当てようとする、そういう場面ではありません。結婚生活と神の王国のために、この箇所から何かを得ようとするなら、ここで示されているパウロの情熱と願望とを感じ取る必要があるのです。パウロはこう書いているのです。

「何かをしようとする前に、祈りなさい。」

 

この箇所の中には、祈りについての4つの独特な箇所があります。これは、一つの家の中に異なる部屋があるようなものです。マシュー・ヘンリーは、パウロが書いたこれら4つの部分を、次のように分類しています。

1.懇願         - 悪を防ぐために

2.祈願  良いものを得るために

3.嘆願  他の人のために

4.感謝  すでに示されたあわれみについて[2]

 

これからその一つ一つを見ていきますが、これらが互いの境界線をはっきりさせるのは、容易ではありません。時にはそれぞれが重複することもありますし、自分が祈る時に、その祈りが4つのどれであるか知るということも、それほど重要なことではありません。さもないと祈りそのものが退屈で機械的なものになってしまうでしょう。大事なことは、神様において示されているこれら原則と、我々の人生と結婚とをかけあわせて、私たちが力強く祈ることができるようになることなのです。聖霊様が私たち、そして祈りの内容や焦点をも導いてくださるでしょう。主に対して心が開かれた状態である必要があります。これらの“道具”を用いることができるのも、主の御力によるからです。

 

1.懇願

最初の祈りの種類は、懇願です[3]。この言葉は

「特別な必要に対して恩恵を受けるための祈り」

という意味をもっています。人生の中で何かが起こるとき、私たちは主に懇願します。私がクリスチャンになったとき、ダニータは、私ともイエス様とも何のかかわりも持ちたくない、と願っていました。離婚の危機が近づいていました。この悪い状況のため、数多くの懇願が主に捧げられました。マシュー・ヘンリーが昔言ったように、懇願は“悪を防ぐ”という目的ももっているのです。裁判や、医者の検査の結果、離婚、そういった危機が人生の中で起こっているかもしれません。主への懇願は、こういった悪を防ぎ、あわれみをいただくためのものなのです。

 

同じ言葉が、ザカリヤとエリザベツのお話の中でも使われています。二人のことをご存知でしょうか?彼らの息子は、バプテスマのヨハネで、イエス様のいとこでした。聖書は、ザカリヤとエリザベツの両方が、主の律法にあって正しく、非難されるところのない人だったとあります。けれども、エリザベツは不妊の身でした。二人とも齢を重ねていました。ですから、それはあまり希望があるようには思えない状況でした。夫婦が子供をもてない、というのはつらいことです。それが二人の間で不和の原因になったりします。霊的には、ザカリヤとエリザベツには何の問題もありませんでした。彼らが主の前に正しくなかったから、という理由で神様が子供を授けてくださらなかったのではありません。事実は正反対で、彼らは正しい人たちだったのです。けれども、私たちが良い人の間でも時々目にするように、神様は即時に行動されないこともあるのです。

 

聖書のルカ書の最初の章には、ザカリヤが祭司の務めをしていた、とあります。他の人々の代表として神殿で仕えていたのです。間違いなくその場で、エリザベツについてのこんな祈りも捧げていたことでしょう。

「神様、私の妻の上にあわれみがありますように。彼女にとって子供をもつということはとても大事なことなのです。私にとってもそうですが、彼女は本当に傷ついてしまっています。」

彼は、懇願を神様に捧げました。彼自身には何の力もなかったからです。そして、ルカ書の113節でこう書かれていることが起こりました。

「御使いは彼に言った。『こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願い(懇願)が聞かれたのです。あなたの妻エリザベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。』」

 

懇願という言葉が使われている別の聖書箇所は、イエス様がゲッセマネの園で祈られた部分です。園のなかでイエス様が祈られ、苦しみの中で汗が血のようにしたたり落ちた場面をご存知でしょうか。主は三回次のように祈られました。

「わが父よ。できますならば、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

これはは懇願の祈りでした。イエス様でさえもが、人としての必要を表現されたのです。イエス様はご自身の神としての性質に頼ってしまうことはありませんでした。主は、私たちが経験することを、ご自身でも経験されたのです。それは、懇願の祈りを通して、父なる神様により頼むことでした。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル57)

 

祈りは聞き入れられたのに、それでもイエス様が十字架につけられなければならなかったことに注目してください。ご自身を救い出すことのできる方が、祈りを聞かれたのです。実際神様はどのように、イエス様を導かれたでしょうか?十字架へです。なぜならそれが神様の御心だったからです[4]

 

私たちの結婚生活においても、神様の御心というのは介在します。けれどもしばしば、私たちはそれに抵抗し、闘おうとするのです。イエス様のように祈るかわりに、私たちはこう祈ります。

「あなたのみ心ではなく、私の望むようになりますように。なんだって、私をこんな試練に合わせるのですか!」

自分の望むようになるようにと祈ることは良くありません。神様が私たちを困難な状況に置かれたのであれば、私たちは神様が祈りを聞かれ、私たちの必要をご存知で、そして私たちを慰めるために共にいてくださる方であることを信じなければいけないのです。その御心に抵抗するべきではありません。どうして、私たちは“神様、邪魔しないでください。私の望むようにならないんだったら、あなたのことは必要ありません”と言って争おうとするのでしょうか?私たちの嘆願の祈りの結果がどのようなものであったとしても、神様はそれを聞いて、ご存知でおられます。私たちは主の残された足跡にしたがって生きていくべきなのであって、それが十字架に至る道であったとしてもそれは例外ではないのです。結婚においては特に、イエス様のように祈る必要があります。“私の望むところではなく、あなたの御心を為してください”と。

 

 

2.祈願

もう一つの神様とのコミュニケーションの手段は、単純に祈願(祈り)と呼ばれるものです。ギリシャ語でこの言葉が意味しているところは、

「必要なものを手に入れる」

ということです。個人的な必要や、夫婦としての必要のために 〜それが霊的なものであっても、一時的なものであっても〜 祈ることは悪いことではありません。それは献身の手段なのです[5]

 

繰り返しなりますが、イエス様が私たちの模範です。イエス様が12人の弟子を選ばれたとき、

「君と、あなた、それからあなた、そして君だ。」

というふうにはなさいませんでした。神の子として備わっていた鋭い判断力を用いられたわけでもありませんでした。人の外見をご覧になられたわけでもありませんでした。聖書のルカ書612節から13節にはこう書いてあります。

「イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。

夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。」

主は、弟子をお選びになる前に、一夜を祈りながらすごされたのです。

 

しばしば、私たちはこれとは異なるやり方を選んでしまいます。状況に対して私たちが示す反応は、預言者サムエルのそれに近いかもしれません。第一サムエル記の16章で、神様はこの預言者に、サウルに代わる王を選ぶためにエッサイの家に行くように命じられました。サムエルは行ってエッサイにこう言いました。

「息子たちを連れてきなさい。」

そこで、エッサイは長男のエリアブを連れてきました。サムエルはこう考えました。

「確かに、主の前で油を注がれる者だ。」

サムエルがこう考えたのは、エリアブが力強く、容姿もよく、他の男より背丈も立派だったからです。けれども神様はこう仰せられました。

「わたしは彼を退けている。」

人は外見を見ますが、神様は人の心をご覧になるのです。

私たちは、人の外見を見て

「この人はとても魅力的な外見を持っている。神様が用いることのできる人に違いない。それに頭もいいし、勤勉だ。良い外見を持っていて、頭のいい人を私たちは必要としているんだ。それにこの人はユーモアももってるぞ。まぁ、それはおまけみたいなものだけど。お金も持ってるみたいだし、この人を仲間にしよう。」

というふうに考える傾向があります。イエス様がなされたように決定を下す前に祈るのではなく、外見で決めてしまおうとするのです。人が見過ごしてしまうような存在が、しばしば神様が選ばれるその人であったりするのです。これは、神様があなたのために用意されている伴侶を選ぶ上でも、とても大変な法則です。

 

初期の教会は、祈りを優先事項としていました。それが鍵となる部分だったのです。使徒の働きの242節にはこうあります。

「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」

私たちも、夫婦いっしょに祈る必要があります。朝一緒にいるとき、仕事に向かう途中、教会に行く時、食事のとき、夜などに一人で祈り、またいっしょに祈ってください。常に祈っている必要があるのです。祈りは、神様があなたの人生において、そして結婚生活や家庭、または教会において働かれることを可能にするのです。

 

私たちが超自然的なことを目にしないのは、もしくは神様が望まれているほどには目にしないのは、私たちが祈らないことが原因だと、私は信じています。宗教的なことをたくさんやりますが、〜それが悪いというつもりもありません〜 最初にくるべき重要なことは、祈りであるべきなのです。

 

120年ほど前のある夏の木曜日、こんなことがありました。多くの資料や、法的文書によって真実が証明されているできごとです。

 

ノース・キャロライナ州のスワン・クオーターという土地には一つだけ問題がありました。そこが低地だったということです。自然に、人に好まれるのは高い場所にある土地でした。豪雨の際は、海抜ゼロに近づけば近づくほど、土地の受ける被害は大きくなるのです。

 

スワン・クオーターのメソジストたちには、教会堂がありませんでした。唯一空いている土地は、オイスター・クリーク通りに面している低地の1画だけでした。理想的とはいえない場所でしたが、彼らはその土地を購入し、建設が始まりました。それはレンガの土台に支えられた、白く、小さいけれども丈夫な建物でした。1876年に建物は完成しました。そして916日に、献堂式が行われました。

 

三日後の水曜日、強い嵐がスワン・クオーターを襲いました。終日風が吹き荒れ、雨が灰色の滝のように降り注ぎました。夜になって被害は大きくなりました。町の大部分が浸水し、ハリケーンのような風によって多くの屋根が吹き飛ばされました。嵐は夜を通して荒れ狂い、翌朝にようやく静まりました。木曜の午後には風もおさまり、雨も弱くなりました。

 

過去24時間以上なかったような、不気味な静けさがそこにはありました。スワン・クオーターの住民はひとり、またひとりと雨戸をあけ、被害の様子を確認し始めました。多くの人には、その荒れはてた景観だけが目に入りました。自然によって打撃を受けた町並みです。けれども、オイスター・クリーク通りの住民は、世にも不思議な光景を目にしました。スワン・クオーター・メソジスト教会の建物が 〜建物がそっくりそのまま〜 道に浮いていたのです。

 

洪水は、建物全体を支えていたレンガから、建物自体をゆっくりと押し上げ、静かにオイスター・クリーク通りへと押し流したのです。しばらくすると、心配した何人かの住民が腰まで水に浸かってやってきました。流れに逆らいながら、まだ動いている教会堂にどうにかして縄をかけようとしたのです。縄はかかりましたが、効果はありませんでした。縄をつないで、押し流されている教会堂を支えきることのできる堅固な建物がなかったからです。

教会堂が流されるにつれて、多くの人が集まってきましたが、効果はありませんでした。建物は流されるままだったのです。やがて、建物はオイスター・クリーク通りを経て、街の中心部に差しかかりました。そして、驚異的なことが起こりました。多くの人が見ている前で、その教会堂は、浮いたままで、説明しようのない急な右折を行い、別の通りの方へと流れていったのです。それは、建物が生きているか、自分の意志をもっているかのようでした。二ブロックほどの間、町の住民は縄を用いてその建物を押し留めようとしましたが、効果はありませんでした。けれどもある時点で、最初それが動いていたときと同じような決然たる様子で、教会堂は方向を変え、そこにあった空き地の中心へと動き、そこで停止したのです。

 

洪水が収まっても、教会堂は無事でした。今日もそれは、そこに建ちつづけています。高地にある高価な土地が、その教会を建てる際の第一希望の場所でした。教会員たちは、価格を提示し熱心に祈ったのですが、その土地を手に入れることはできませんでした。土地の所有者だった、抜け目のない人お金持ちは、売ることを拒否したのです。けれども洪水の翌朝、教会堂が自分の土地の真ん中に建っていることを知った彼は、まっすぐにメソジスト教会の牧師のものとに向かい、震える手で土地の権利書を手渡したのでした。

 

ここで私たちが見るのは、間違いなく

「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」(ヤコブ516)

ことの例です。祈りが、結婚においても不思議なことをもたらすことを、知っておいてください。神様は、あなたを試練の中から理想的な状態へと動かすことのできるお方なのです。

 

 

3.嘆願(とりなしの祈り)

3つ目の祈りの種類は、嘆願とか、とりなしと呼ばれるものです。これは、他人をとりなす為の祈りです。

 

私は、自分がどのように祈るべきかいつも知っているわけではありませんが、聖霊様はどのように祈るべきかご存知です。イエス様は、私が祈る前から私の必要を知っておられます。ですから、私をとりなしてくださるのです。ローマ人への手紙8章の26-27節にはこうあります。

「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」

 

聖霊様は、私たちがどのように祈ってよいかわからないときに、私たちのためにとりなしてくださいます。ローマ人への手紙834節にはこうあります。

「罪にさだめようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

ですから、聖霊様だけでなく、イエス様も私たちのためにとりなしてくださるのです。

 

神様の御座の前に進み出て、

「主よ、私の前をお進みください。この状況の中で仲裁者となってください。どのように祈ってよいのかわかりませんが、主よあなたはご存知です。あなたは全てをご存知ですから、とりなし、私を弁護してください。」

と言う時、そこにあるのはとりなしの祈りです。(自分の結婚生活が絶望的な状態にあったとき、私はたくさんの夜を、このような祈りのなかで過ごしました。そりの合わない夫婦で、何も変化することがないように思えましたが、やがてそれらは変えられたのです。)

 

他の人のためにとりなしの祈りが用いられることもあります。あなたの伴侶のためにどのように祈ってよいのかわからないこと、そして相手も自分のためにどのように祈ればよいのかわからないこと、そういうことは沢山あります。ですから、

「主よ、彼(彼女)を取り扱ってください。または祝福してください。あるいは必要とされているやりかたで触れてあげてください。何が必要とされているかは、主よあなたがご存知です。彼(彼女)の人生において動いてください。」

と祈るのです。

聖書にはこうあります。

「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル725)

私たちのためのとりなしの大部分は、主ご自身と聖霊様によってなされるという点に注目してください。

 

夫婦はよく食事の前にいっしょに祈ります。そしてその祈りによって食物は清いものとされます。この習慣をどこで私たちは身につけたのでしょうか?第一テモテ4章の4-5節からなのです。

「神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」

 

ヤコブはこう書いています。

「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」(ヤコブ516)

聖書は、私たちが互いのために祈り、とりなしあうように熱心に勧めています。これは、特に結婚を聖いものとするために有益なことです。

 

 

4.感謝

最後の種類の祈り 〜家の中の四つ目の部屋です〜 、は感謝の祈りです。感謝という言葉は、ギリシャ語の“ユーカリスティア”[6]からきています。英語の“ユーカリスト”[7]という言葉も、ここから来ています。これは、“礼拝を通して神様に感謝すること”を意味しています。つまり、神様に賛美と感謝とを捧げることなのです。

 

感謝をささげていないために、祈りが答えられないということがあります。私の意味するところはこうです。私たちは“恩知らずの9人”のようです。ルカ書の17章で、イエス様がらい病人を癒されたとき、ただ一人だけが戻ってきて感謝したのを覚えているでしょうか?すでに答えられた祈りに対する感謝が欠けているために、現在の祈りも、信仰と力とが欠けたものになってしまうのです。R. A. トーリーは、“どのように祈るべきか”という本の中で、この教訓について詳しく語っています。神様がなされると約束されたことを信じ、祈りを力強いものとできるかどうかは、神様が今までに為してくださったことに私たちがどれだけ感謝をささげているかに影響をうけるのです。

 

聖書にはこうあります。

「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(第一テサロニケ518節)

感謝の心をもつようにならなければいけません。主が私たちのために為してくださったことをふり返り、それらに思いをとめ、それらを列挙し、主に感謝する必要があるのです。

 

自分の伴侶のことを毎日神様に感謝してください。結婚における問題について考え込むのではなく、二人が分かち合うことのできる祝福について、神様に感謝してください。相手の長所に目をむけ、そのことを感謝してください。結婚における問題について心配してしまうこともありますが、聖書にはこうあります。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を紙に知っていただきなさい。」(ピリピ46)

結婚生活における、難しくて痛々しく、困難な問題について祈る時、私たちは神様に感謝をささげているでしょうか?神様に感謝することは祈りの一部なのでしょうか?聖書は私たちがそうするべきだと書いています。そしてそれを行うとき、素晴らしいことが起こるのです。

 

 

 

王のために祈ること

 

パウロは、私たちが“すべての人のために”祈るように書いています(第一テモテ21節)。不信者のために、クリスチャンのために、そして敵や友のために私たちは祈るべきなのです。当然私たちの伴侶のためにもです。

 

一世紀には、ラビ達は異邦人のために祈ったり、心配ごとを抱えたりするべきではないと教えていました。彼らにとって異邦人は、地獄の火のためにつくられた薪のようなものだったのです。(ユダヤに属さない世界について、彼らはとても陰気な見方をしていました。)

けれどもクリスチャンには、キリストイエスにあってそういう差別や分裂はありません。私たちはすべての人のために祈ります。神様はすべての人が救われることを望んでおられるからです。パウロは2節で続けてこう書いています。

「(また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。)それは、私たち敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」

 

キリスト教のポジティヴな面がここにあります。世の統治者のために私たちは祈るべきなのです。しばしば(正当な理由によることもありますが)教会は、この世がやっていること全てに反対し、政府や政治家に対してデモを行ったり、非難したり、ロビー活動をやったりするとして非難されてきました。それが有害な場合は反対の声をあげることも必要ですが、不幸なことに私たちは全てのことに対して反対しているような評判を受けてしまっているのです。

 

抗議活動に費やすのと同じだけの労力が祈りに費やされるなら、もっと大きな前進がそこにはあるかもしれません。ロビー活動や抗議集会、デモ、そして非難などに集中しているなら、それは肉の力で社会を変えることができると私たちが言っているのと同じことなのです。神様頭をかきながらこう思われているでしょう。

「なんでお前たちは私に祈って、私が人の心を変えるようにしないのだ?」

うわべを飾ることはできますが、その後ろの骨組みがぼろぼろなら、建物はすぐ壊れてしまいます。けれども内側を変えれば、問題を解決することができるのです。結婚においても同じことが言えます。自分の伴侶が“宗教的な行い”をやるように抗議したり圧力をかけることはできますが、心を変えることができるのは祈りだけなのです。

 

これが、私たちが祈らなければならない理由です。人の心が、神様の力によって変えられるように祈っていく必要があります。箴言の211節にはこうあります。

「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。

みこころのままに向きを変えられる。」

変化を与えていこうとする動きの一部を担う必要が私たちにはあるのです。けれども、私たちが外面の変化にのみ集中してしまうのなら、神様はきっとこうおっしゃるでしょう。

「何をやろうとしているのだ?お前が(人を)私の王国に迎え入れるのではなくて、私だけが私の王国に迎え入れるのだよ。だから祈りなさい。」

 

初期教会の指導者だった、タータリアン[8]はこう言いました。

「私たちは全ての皇帝たちのために祈ります。神様が彼らに長寿を授けてくださるように、政府が安定するように、家族の繁栄のために、強い軍隊のために、忠実な議会のために、従順な人民のために、そして世界が平和であるように。神様が、シーザーとすべての人がそれぞれの望んでいるものを達成することをお許しになりますように。」

同時代に生きていた、オリジェン[9]はもっと急進的でした。彼はこう言いました。

「私たちは、王と支配者たちのために祈ります。知恵と思慮深さとが、国王の権威と共にありますように。」

彼は、私たちの祈りが、“平和を乱し、戦乱を引き起こそうとする悪魔に打ち勝つ”ことを願ったのです。

 

妻たちも、家のかしらである夫たちのために祈るべきではないでしょうか?そして、夫たちは、家庭や子供たちに対して妻がもっている大きな責任が、神様によって導かれたものとなるように祈るべきではないでしょうか?私たちが同じことを、国の指導者たちに対して行うべきなのであれば、それを家庭の中においても行うべきではないでしょうか?

 

ここに、クリスチャンの夫婦が、自分たちの国のために神様を求めながら祈り、共に労する機会があります。人々は私たちのことを、すべてのことに反対する、敵対的で不満を抱えたクリスチャンだと思っているかもしれません。政府や指導者たちのために祈ることは、こういう誤った見方を打ち砕くことになります。人が望むのは、自分のお金が奪い取られるのではないかと心配しているような人間ではなく、神様にあって彼らのために祈りをささげてくれるような普通の市民なのです。こういったことがよくテレビで放送されているので、理解することはできます。けれども彼らが常に目にするのが、全てのことを批判するだけのクリスチャンだとしたら、彼らをキリストのもとに勝ち取っていくことは決してできません。彼らの心を勝ち取るならば、彼らの人生の残りをも勝ち取ることになるのです。安全な国家が、平和な社会をつくります[10]。ですから、私たちは国の指導者たちのために祈らなければいけないのです。良い統治者たちは、国家や家庭のためにたくさんの良いことをする力があるのですから、それが続けられるように祈りましょう。悪い統治者は、同様にたくさんの悪事を行うことができます。ですから神様がそれを妨げ、防がれるように祈る必要があるのです。国家と私たちの家庭がどれくらい健全であるかは、その統治者の性質にかかっています。けれどもそれが良いものであれ悪いものであれ、私たちには神様を通して統治者に直接影響を与えていく力があるのです。これは全ての結婚した夫婦が行うことのできる、偉大な奉仕なのです。

 

私たちの祈りはどこまで続くのでしょうか?[11]

「それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」(第一テモテ22)

平安は、何もないところから社会に平和をもたらします。静かな一生とは、私たちの内なる平安のことです。ですから、私たちが統治者たちのために祈る時、私たちは“敬虔のうちに”外に静けさを、そして内に平安を持つことができるのです。敬虔さとは、私たちと神様との関係のことです。威厳は、私たちが他の人たちともつ関係のことです。これは単純に他人に対するまっすぐで正直なふるまいのことなのです。

 

 

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[1] Battle-Plan Prayer

[2] Entreaties, Prayers, Petitions, and Thanksgivings

[3] The first type of prayer is entreaties, or supplications.

[4] “Notice, Jesus was heard, yet He went to the Cross. He was heard by the One who was able to deliver Him. And how did God deliver Him? He delivered Him to the Cross because that was the will of God.

[5] It is a means of devotion

[6] Eucharistia

[7] Eucharist、聖餐式の意

[8] Tertullian

[9] Origen

[10] A safe nation makes a secure society

[11] To what end do our prayers go?