結婚における霊的戦い -良い結婚を勝ち取るために-   タイトル・ページへ

Byビル・ストーンブレーカー

 

第七章

 

割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。

大事なのは新しい創造です。(ガラテヤ615節)

 

文化の衝突 − ジムとテリの場合

 

ジム・ローニーは、私たちのミニストリーのスタッフで、テリは私たちの本屋さんの店長です。二つの全く異なる文化が、キリストにあって一つになろうとする過程で、彼らは12年の歳月を霊的戦いのなかで過ごしてきました。以下は、彼らのお話です。

 

テリとアンソニー(テリの最初の結婚で生まれた5歳の息子です)は、テリの両親と共に住んでいました。テリは日本人と中国人の混血でした。この二つの文化の中では、家族という単位が個人よりも優先されます。テリの父親は成功している会社をいくつかもっており、子供たちも家族のビジネスのために働くことを期待されていました。それが世代を超えた伝統だったのです。

 

教会で行われるカジュアルな集まりや、バイブル・スタディで、テリとジムは出会いました。時がたつにつれて、二人の関係は深くなっていきました。テリの両親は、ジムがアイルランド系で、日系でないということに困難を覚えていました。ジムもテリの家族との接点を失っていました。彼が、テリの父親(一族の長として権威をもつ存在です)に頭を下げる習慣を拒否したからです。文化の衝突が深まっていきました。

 

最初の頃は、ジムの性格と信頼性とに攻撃が集中していました。ジムとテリの関係が深まるにつれて、二人とテリの父親との関係は悪化していきました。夕食への招きを通して、ジムは歓迎されていないということが陰険な方法で示されることがありました。食事は準備されているのに、ジムはそこに存在していないかのように、ジムの分だけテーブルマットが準備されませんでした。これはジムが家族の一部ではないという暗黙の意味合いをもっていました。

 

ジムとテリを挑発して、彼らのクリスチャンとしての証を駄目にしてしまうような反応を引き出すようなことも、家族は行いました。中国の祝日に、家族が先祖のお墓参りに出かけたとき、状況はさらに悪化しました。アルコールをささげ、道教の教えに従ってお金を燃やすのですが、ジムとテリがこれに参加するのを拒んだ時、家族は非常に気分を害しました。ジムは、アジア系の人種を憎みその文化や信仰に敬意を払わない人間として非難されました。テリは、自分の文化に背を向け、仏教や道教の寺院を訪れないことで家族を辱めているとして責められました。

 

教会と家庭集会とが、ジムとテリの避けどころとなりました。この時点で、彼らの霊的な意味での家族は、多くの意味でテリの実際の家族よりも近しい存在になっていました。ある晩の家庭集会で、一人のクリスチャンの女性が、テリが闘っているのは“霊的な戦い”なのだということを示してくれました。彼女の両親がジムに対する憎しみを、言葉にすることができないのを思い起こした時、テリはそれが真実であると認識しました。この霊的戦いの期間を通してテリを慰め、支えたのは次の聖句でした。

「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」(第二コリント417)

 

ジムとテリの結婚式で、全てが悪い方向へと変わりました。テリの父親はやり方を変え、テリの忠誠を取り戻そうと、最後の試みを行ったのです。結婚式のなかで、彼はテリを勘当すると脅しました。書類を抱えてやってきて、結婚するなら、その書類にサインをするようにテリに迫ったのです。書類は簡単にいうと、収益を上げているビジネスからテリを追放し、家族の遺産の所有権も奪い去るという内容のものでした。テリの心の痛みは増すばかりでした。彼女が幸せであるはずのの結婚式で、彼女を育ててくれた、尊敬し愛する両親が、非常に冷酷な様子で振舞ったのです。喜びを示してくれる代わりに、テリの家族はジムとテリとを別れさせようと最後の試みを行ったのでした。

 

痛みからくる涙のなかで、霊的な戦いをはっきりと見るのは、時には難しいことです。結婚の後、テリの父親は、ひどいメッセージをテリの留守番電話に残すようになりました。それでも結果が出ないのを知ると、彼は今度は、孫にあたるテリの6歳の息子に働きかけるようになりました。

 

この時点で、法律的にジムはアンソニーを自分の子供としていました。テリの家族はアンソニーに対して、テリの“クリスチャン時代”が過ぎ去ったら、すぐに全てが元通りに戻るのだと話しました。テリとアンソニーは、再びおじいちゃんやおばあちゃんと一緒に住むことができて、日本に行ったりできるし、おじいちゃんはアンソニーの欲しいものは何でも買ってくれるだろう、と。

 

このときアンソニーはわずか6歳でしたが、両親に対して、彼が霊的な戦いの中にいること、ビル牧師のところへ霊的問題のカウンセリングを受けに行く必要があることを伝えました。一家は疲労困憊していました。感情的に疲れて、大きなストレスを感じていたのです。物事が非常に悪化したあるときのことを、テリはこうふり返ります。

「私の家族が主を信じるようになるかどうか、ということさえもう気にはなりませんでした。」

家庭集会は、彼女の両親が救われるようにずっと祈り続けていました。そして、ジムとテリは、これが“霊的戦い”なのだということをもう一度思い起こさせられたのです。

 

テリの両親は、彼らに話しかけるのを止めました。孤立させれば、それが結婚の不和を生み出すだろうと考えたのです。ですから二年間もの間、お互いに10分ほどの距離に住んでいたにも関わらず、テリとジムがテリの両親と言葉を交わすことはありませんでした。

 

これらの問題が、ジム、テリ、アンソニーを別つことはありませんでした。むしろ家族としてそれぞれが近くなる役割を果たしたのです。両親からの攻撃に対しては身を縮めるだけでしたが、キリストにあって彼らは一体だったのです。祈りと交わりの中で、彼らの絆は強くなりました。教会と家庭集会とが再び彼らの家族となったのです。

 

この時期に、テリの父親は前立腺がんを患うようになりました。テリの母親は、これをテリに伝えようとしなかったため、自分の死の床にあって自分の娘と孫が見舞いにも来ないことについて父親が痛烈な内容の手紙を書くことになりました。家族の全員に対して、ジムとテリがいかに冷酷でひどい人間かを、テリの父親は言いふらしました。家族の彼らに対する評判は地に落ちてしまい、長い間彼らはその嘘を信じた家族と友人たちからの侮辱や軽蔑に耐えなければなりませんでした。

 

真理と伝統とが衝突する時には火花が散ります。伝統は簡単には打ち破られません。イエス様もそれ故に迫害を受けられました。これを通して、ジムとテリは神様が何に代えてもテリの父親を救われるように祈ったのです。

 

癌はよくなりましたが、11年後にひどい状態で再発しました。テリの父親は入院し、自分の状況が良くないことを知りました。化学療法と放射線治療が彼を弱めていきました。教会の人は愛をもって、彼を訪ねたり、音楽を演奏したり歌ったり、そして彼のために祈ったりしました。家族のメンバーにかかった負担は多大でした。病院での徹夜の看病が、彼らが日常的な活動を行うのを妨げました。ジムとテリは軽蔑されたままでしたが、毎日食事を用意して家族のもとに届けたのです。

 

この試練をとおして、神様はテリの父親の心に働きかけてくださいました。そして、ジムとテリが耐えてきた霊的戦いも実を結ぶことになったのです。彼はようやくジムとテリが正しかったことを認めました。(ジムとテリが)尊敬に値するやりかたで、全てのことを耐え忍んできたことは、彼に対する大きくて明瞭な語りかけとなったのです。けれども究極の勝利は、ジムが病院で死にかけている彼の義父をキリストのもとに導いた時にやってきました。ジムはこう言います。

「私の敵は、死の直前に私のキリストにあっての兄弟となったのです。」

12年にわたる霊的戦いが報われる時が来ました。それは二人に、祈りをとおして人を神の王国へと導くことを教えました。

 

このことはまた、まだ小さく霊的戦いの中で育てられたアンソニーに“よく闘う”ということはどういうことなのかを見せることになりました。大学に進学する前の18歳のときに彼は、両親が日々をイエス様の

「あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカ628)

という御言葉に従うことを通して、自分の祖父がキリストを信じるようになったのを目にしました。

 

神様がなさってくださったこと、今もなさってくださっていること、それらを通してジムとテリが得た喜びは、彼らの傷心を覆うようなものでした。彼らは今もこう言います。

「私たちの家族や親戚のためなら、もう一度はじめから同じ事を経験しても構いません。」

 

 

霊的な虚飾の危険性 ― ジェリーとジョアンナの場合

 

ジェリーはカルバリーチャペル・ホノルルにおける、あるミニストリーのリーダーでした。彼の妻ジョアンナと共に、教会の中でも非常に目立つ重要なポジションにいました(彼らの名前といくつかの詳細は、彼らのプライバシーを守るために変更してあります)。以下が、彼らのお話です。

 

出会ったとき、ジェリーとジョアンナは普通のクリスチャンでした。二人とも早い時期にキリストを受け入れていましたが、どちらも本当にキリストと共に歩んでいたわけではありませんでした。二人は職場で出会い、嵐のような、けれども世俗的な恋愛をするようになりました。時間が経つにつれて二人の愛は深まり、イエス様が必要だという感覚も増していきました。

 

彼らは、カルバリーチャペル・ホノルルに出席し始め、イエス様や、彼らの人生におけるイエス様のご計画について学び始めました。

「それは、それまでに二人でやったことの中で最良のものでした。」

と二人ともが言いました。

主に近づくにしたがって、二人の関係も近しいものとなっていきました。霊的に、そして感情的に成長していくにしたがって、二人の関係が新たなものにされていくのを、二人は楽しみました。やがて二人は同じゴールを描くようになりました。ほどなくして二人は婚約し、10週間の結婚前のカウンセリングを受け、夫と妻になりました。

 

結婚の最初の4年間は、“この世の天国”のようでした。二人ともとても幸せで互いを愛し合っていました。けれども、結婚は庭のようなもので、継続的な雑草取りを必要とします。敵のイバラやアザミが神様のよい働きを阻害することがないように気をつけなければいけないのです。ジェリーとジョアンナの生活は、この世という雑草に阻害されるようになっていきました。ジョアンナは、大学で勉強しながらフルタイムで働いていました。ジェリーは仕事を二つ持つ身でした。ジェリーはこうふり返ります。

「イエス様以外の何かのために忙しくしているのは、問題の原因になるんですよ!」

そして、それこそが二人に起こったことでした。

 

クリスチャンの夫がどのようなものかジェリーは知っていましたが、それを実践していくことに失敗してしまいました。いつも、正しいクリスチャン的なことを言いましたし、家の中での言い争いはめったにありませんでしたので、全てが上手くいっていると考えてしまったのです。敵は、彼が真実な愛やロマンスという本質的な部分を放ったらかしにしていたにも関わらず、虚飾のクリスチャン用語を使っていればそれで大丈夫かのように思い込ませたのです。

 

ジェリーが、クリスチャンの夫としての地位を保っていた間に、ジョアンナは彼から離れ、彼女の同僚の一人と親しくなり始めました。時間が経つにつれて、その職場恋愛も進行していきました。やがて、ジョアンナは、もう彼のことを愛していないということをジェリーに告げたのです。

 

どうやったら他の男性のために、主と夫の間にあった全てのものを投げだすことができるのか不思議に思いましたが、ジェリーにとってそれは、“目を覚まさせる”声でした。私たちが人としての限界に到達する時、そこは神様の領域の始まりです。ですから、ジェリーは“これまでにないほど”主にたいして祈るようになりました。

 

最も安全で最良の場所は、イエス様に近い場所だということを、ジェリーは教えられました。時間が経つにつれて、ジョアンナと話すことにも困難を覚えるようになり、やがて離婚が話題に上るようになりました。二人が別れることは避けられないことのように見えました。状況からくる緊張感は、ジョアンナをも疲れされ始めていました。彼女はどこを向けばよいのか分からない状態にありました。その時の精神状態で、神様のほうを向くことができるとは思えませんでした。彼女は既婚女性でしたが、彼女の夫ではない別の男性に強い感情を抱いていたからです。

 

悪魔は、罪を魅力的で手に入れやすいものにします。私たちがそれに食いつくと、今度は神様が近づきようのない存在であるかのように見せかけ、その罪から逃げ出すことはできないと信じ込ませるのです。

 

教会がなんと言おうと、家族がなんと思おうと、そして彼女のクリスチャンではない友達たちの助言にも関わらず、ジョアンナはジェリーから離れていく気持ちでいました。彼女の内側では戦いが行われていました。彼女はこうふり返ります。

「とても小さな声が、正しいことをやるように私に語りかけていました。けれども私は自分のもっている全てのものを使ってその声と戦っていたのです。」

この時点で、彼女がジェリーに昔抱いていた気持ちは、もうなくなっていました。けれども、彼女はこう言われました。

「主にあって、結婚についての正しい決定を下しなさい。感情は後からついてきます。」

ジョアンナは後になってこう証しました。

「今からふり返ってみると、その時私の結婚が守られるように起こっていたすべてのことは、神様から出たことで、私自身から出たものは何もありませんでした。」

 

ジョアンナは、“決断の谷”におり、ジェリーから離れました。ジェリーと再開したとき、彼女は物事を正しく行うということを決めた、と彼に伝えました。それは、神様がラザロを死からよみがえらせた時のようでした。けれども、心の傷や不信感、そして裏切られたという感情、そういった“死者の衣”が、二人から取り外される必要があったのです。二人の荒れ果てた関係に、新しい命を吹き込むのは、ジェリーにもジョアンナにも不可能なことのように思えました。けれども神様とって難しいことは何もないのです。(エレミヤ3217)

 

ダニータと私は、ジェリーとジョアンナに対するカウンセリングを行いましたが、二人の互いに対する愛が“生命維持装置”が必要なほど弱っているのは明らかでした。さらにややこしいことに、ジョアンナが、その男性によって妊娠していることが判明しました。その状況と向き合うかどうかジェリーは真剣に悩みました。関係を元の状態にもどすということは、彼が他の男性の子供の父親になるということを意味していたのです。彼らは疲れ、打ちのめされ、底まで落ちてしまったかのように感じていました。けれども主がそこで働かれ始めたのです。

「今振り返ってみると、神様はそこで私も砕かれていたのだということがわかります。」

とジェリーは言います。

「落ちるところまで落ちてしまうと、上におられる主以外に見るものはなくなってしまうのです。」

 

ジェリーとジョアンナはこう決めました。

「主よ、もうあなたにお任せするしかありません。」

そして、主にあって再び一緒にやっていくと決めたとき、神様の御言葉が彼らの力となりました。

「私たちは、もう一度最初から主を愛するようになりました。そして、今までなかったように互いを愛するようになったのです。」

彼らはこう証します。

「今私たちは3人家族です。一人の娘と、愛のある関係とで祝福されています。そして、今は神様の御前に純粋で非難されることの状態で進みでることができるのです。」

 

どのような状況にあっても、神様の働きは人をそこから救い出すことのできるものです。私たちは神様によって養子とされた子供たちなのです。そして神様は私たちを非常に愛してくださっています。私たちは迷えるものでしたが、私たちがどのような者であったかに関わらず、神様は私たちを引き戻してくださいました。神様は良い働きを私たちのうちに始め、そしてそれを完了させてくださいます(ピリピ16)。その働きとは、私たちが主のようになり、主のように赦し、主のように行動することなのです。主に身を任せる人に、主は未来と希望とを備えてくださるのです(エレミヤ2911)

 

 

赦し、神様にゆだねること ― ケビンとジャネットの場合

 

内面を見ると落ち込みます。

外面を見ると苦しみます。

イエス様を見れば、休息があります。[1]

 

ケビンと、彼の妻ジャネットは、カルバリーチャペル・ホノルルの様々なミニストリーに関わってきた夫婦です。以下にあるのは、ジャネットが話してくれた彼らのお話です。妻の視点に立った、素晴らく洞察に富んだ証だと思います。

 

私たちの結婚の最初の頃をふり返ってみると、いくつかの霊的戦いがあったのが思い出されます。その渦中にいた時は、自分たちは普通の、もがいているクリスチャンなのだと思っていました。クリスチャンの妻・母親として、また夫・父親として日々を一生懸命いきているだけなのだと考えていたのです。

 

結婚生活が7年(クリスチャンとしては4年です)に及んだとき、全ての夫婦がストレスを感じる時期がやってきました。私はよちよち歩きの子どもを二人抱えた専業主婦でした。金銭的にとても厳しい生活をしていました。絶望的なほどロマンチックで、非現実的なイメージを結婚に抱いていたので、どのようにしたら私を幸せにできるか、自分の夫はいつも知っているものだと思っていました。私が必要なときにはデートに連れて行ってくれるものだと思っていましたし、喜んで私のそばに座ってお話ししてくれるものだと考えていました。助けを求めたり、自分がどのように感じているか、などを彼に伝えるのは、私にとっては自然にできることではありませんでした。自然にできたことと言えば、私の大好きな3人の人について考えることでした。自分、自分、そして自分、です。

“私のことはどうなるの? 私の必要は? 一人で生きてるほうがマシだわ。”

というのが私の思いでした。

 

クリスチャンになって4年でしたが、私はまだ自己中心で、自分のことばかり考えていました。悪魔は私の思いの中で活発に活動していました。それは抑制されないままの状態でした。自分の行動をコントロールすることはできましたので、罵ったり、悪口を言ったり、怒鳴り声をあげたりすることは、夫にも子供に対してもありませんでした。けれども私の思いはコントロール不能な状態でした。内省的な傾向のある私の性格を悪魔は利用しようとしました。私を誘惑し、私はそれにのってしまったのです。

 

こういった思いは何日もの間続き、やがて私は、全て夫が悪いのだと信じるようになりました。自分自身には何も悪いところはないと思いました。私の思いは、延々と彼の悪い部分や、彼が改めなければならないことを挙げ続けました。

 

あるとても寂しい夜に、疲れきった私と子供たちのもとに、疲れきったケビンが帰ってきました。静かな夕食と、読書の時間を私たちはとりました。一緒にですが、孤独のなかでです。少なくとも私は孤独でした。彼はベッドに向かい、私は起きていました。

 

普段私が自分の自由にできる時間は、夜遅くだけでした。その時間だけは、他の人の必要を満たす必要もなく、物事を考えることができました。ある夜に私は、夫が私のことをどれだけひどく扱っているか、どれほど彼が変わる必要があるかを書き記した怒りの手紙を夫に対して書き始めました。本当に何ページもの紙を、夫の欠点に対する指摘で埋め尽くしたのです!そして、夫が翌朝キッチンに来た瞬間にそれを見ることになるように、その手紙をテーブルの上に残しておきました。そして私は、彼が自分の欠点を正確に知ることができるだろうということに安堵の気持ちを覚えながらベッドに入りました。幸いなことにそこで神様が介入されました。聖霊様が助けにこられたのです。

 

奇妙なことがおきました。真夜中にトイレに行くために私は目を覚ましました。キッチンのほうに目をやると、月の光があのひどい手紙の上にスポットライトをあてているように見えました。主に導かれるようにして、私はその手紙をとり、細かく引き裂いて捨てました。

 

翌日の朝のデボーションのときに、私の目の中の梁があまりにも大きすぎるため、私が自分の欠点をみることができないのだ、ということを主が私の心に語りかけられました。それまでは、自分の行いをどのように変えていくかということについては、私は聖霊様が働かれるのを拒んできました。自分の夫の欠点に思いを集中していたからです。主は、私の欠点のいくつかを示してくださいました(人の欠点ばかり目に付くことや、自分をいらだたせるようなことに、気をつかいすぎることなどです)。そして主は、私が変わっていくのには多くの労力が必要となること、夫のことは主にゆだねて、自分の欠点を変えていくことに集中すべきであるということをはっきりと示してくださいました。実際、主こそが神なのですから、二人同時に変えていくということも主には可能なわけです。

 

私の小さなことへのこだわりや、マイナス思考を利用して、敵は私の結婚を破滅させようとしていましたが、聖霊様が私をそこからひき離してくださいました。サタンは、私の思いを使って、私を神様の御業からひき離し、否定的なことにばかり目が行くようにしようとしていたのです。それは思いという場所での戦いでした。ピリピ48節にはこうあります。

「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、賞賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」

 

実際のところ、年を経るにしたがって私の夫は、私に対してもっと敏感になっていきました。私のほうも自分の必要を彼に伝え、分かち合うことができるようになってきました。今日に至るまで私は、夫を神様の御手の中にゆだねています。私が神様の御手からそれを取り返そうとするときは、私の弱い部分について、神様がまだ残されている多くの働きについて思い起こさせてくださいます。ですから、私は引き下がってこう言うのです。

「やりましょう、主よ。私を変えてください。彼のことは後でも構いません。」

 

後ろに下がって、神様があなたの結婚に働きかけてくださるのをご覧になることをお勧めします。主のあわれみによって、主が霊的戦いをも私たちのために戦ってくださることを可能にすることによって。ケビンと私は30年にわたる幸せな結婚生活を経験してきました。すべての賛美を主に捧げます。

 

 

妻の祈りからくる力 ― スティーヴとウェンディの場合

 

スティーヴとウェンディは、カルバリーチャペル・ホノルルのミニストリーの重要な部分を担ってきました。二人は、ハワイにある二つの妊婦救済機関[2]を設立し運営してきました。それは何千もの女性への助けとなり、数え切れないほどの胎児に生きるチャンスを与えてきています。祈る妻からくる力は、神様の御手の内にある素晴らしいことです。クリスチャンの妻として、ウェンディは継続的にスティーヴのために祈りました。彼女はまた、彼らの5歳になる息子のアロンが

「神様、お父さんが家に帰ってくるように祈ります。」

と言うように教えました。スティーヴは、神様が彼の反抗的な心をどのようにしてキリストのもとに向けられたかを、次のようにふり返ります・・・。

 

どういうわけか、私は自分のゴールは妻を手に入れ、2.5人の子供をもち、犬を飼って、白い柵がついた家に住むことだと決めていました。22歳になるころには、全くその通りのことをやっていました。けれども、自分の内側の深いところでは何かが欠けていましたので、それをワインや女性、歌などで満たそうとしていました。でも何をやっても残るのは空しさだけでした。その空しさを消すために、ボート、車、馬などの多くの高価な“もの”を買いました。妻と子供から離れて、別の女性と関係をもったりもしました。

 

その後3年間、私は乱れて狂ったような生き方をしました。自分が自己中心的で、家庭を傷つけているということを理解していませんでした。妻はよく、クリスチャンのテープを私の車のステレオにこっそり入れておくということをやりました。私はそのテープを時速90キロの車から投げ捨て、それがどれくらい遠くに飛ぶかを眺めて楽しんでいました。

 

ある日私は、新車のジャガーを運転して、飛行機を買うために空港に向かっていました。それで幸せになれるとは到底思えませんでした。何をやったとしても、自分の人生から空しさを消すことができないということにようやく気づいたのです。人生がそんなものなのなら、このジャガーをレンガの壁に突っ込ませて死んでしまったほうがよいと思いました。自分の内側の飢えを満たせるものは何もなかったのです。時には、神様に祈りさえしました。けれども、聖書を読むのは退屈だし、教会に行くのは重労働でした。自分にはほとんど意味のないことだったのです。

 

その日のことを、まるで昨日のことのように覚えています。太陽がまぶしく照りつける中を、ジャガーに乗って走行していました。車の中は、皮革と胡桃の内装のにおいが満ちていました。飛行機を買いにいくんだ、と思っていました。そうする代わりに、高速道路に入り、160キロまでスピードを上げ、レンガの壁に向かって突っ込もう・・・としたのですが怖くなって途中で止めてしまいました。もう一度チャレンジするためには、高速道路に戻る方法を考えなければなりません。けれども今度こそを勇気を奮い立たせて壁に突っ込もうと思っていました。

 

そこでどういう理由か、ジーナという近所に住んでいるある女性のことが思い浮かびました。彼女は薬物中毒者で、ここで言う必要もない他の問題も抱えた人だということを私はずっと聞かされていました。けれども、私の知っている彼女は、愛に溢れ、柔和で気遣いに富んだ人でした。他人が言うことと、私が見たことは一致しませんでした。そこで私は彼女を訪ね、なぜ彼女が何事にも悩まされる風ではなく、いつも幸せそうにしていられるのか聞いてみようと思いました。

 

彼女のドアのベルをならし、彼女は私を中に入れてくれました。私は彼女に、どうして彼女が人生について、そうも幸せで満足していられるのかを説明してくれるように願いました。そしてこう私は言いました。

「あなたの持っているものが、僕には必要なんだ。」

彼女は、説明してあげましょう、と言って寝室のほうへ向かいました。私はこう思いました。

「いや、セックスじゃない。セックスが答えのはずはないんだ!」

彼女が寝室から何を持ってきたかを知ると、驚かれると思います。それは、黒表紙の大きな聖書でした。

「うううう、それじゃもっと悪いじゃないか!」

 

聖書を読むと眠くなることや、それが理屈に合っているとは自分には思えないことなどを彼女に説明しました。彼女の答えは単純に

「じゃぁ、それについて祈りましょう。」

でした。その後で、私が今までにも“キリスト教”を試したことがあり、効果はなかったことを話しました。再び彼女はこう言いました。

「じゃぁ、それについて祈りましょう。」

 

「僕の人生は、荒れ果てているんだ。」

私は彼女にそう言いました。

「僕がさっき、何をやろうとしていたか話させてよ。」

 

私の話を聞き終わった後でも、彼女の反応は単純明快なものでした。

「じゃぁ、それについては絶対に祈らないと。」

私が自分の問題すべてを、自分のために死んでくださった方の足元に投げ出す気があるかどうか、彼女は私に尋ねました。それがどういう意味を持っているのか、私には正確には理解できませんでしたが、彼女の“それについて祈りましょう”という答えが、私の気持ちをやわらげてくれました。実際のところ、彼女の人生はとても素晴らしいものに見えました。彼女が抱えていた問題にも関わらず、彼女には喜びがありました。そしてそれこそが、私が絶対必要としていたものだったのです。彼女は、私を“罪人の祈り”へと導いてくれました。そして、私の人生におけるほかの問題全てについても祈ってくれました。

「アーメン」

と私は言いました。そして、目を開けて私はこう思いました。

「ふーむ。なぜか分からないけど、気分がいいぞ。」

 

車に向かうとき、草はより青々として見え、自分の周りの景色と比べればジャガーも色あせて見えるほどでした。

「神様、これはあなたがなさっているのですか?」

私はこう考えました。ちゃんと地に足をつけて歩いているか、足元を見て確認しなければいけないほどでした。地面から1メートルほど浮いているかのように感じられたからです。イエス様が、私の背中にあった巨大な悲しみのかたまりを取り去ってくれたので、歩みが軽く感じられたのです。

 

すぐに、神様が私の道を導いてくださるように祈りました。

「今何をすればよいのでしょう?」

私は神様に訪ねました。神様は、私がどうやったら自分の人生を清め、妻や子供たちと再び一緒になれるかを示してくださいました。また、私が自分の“おもちゃ”を捨て去り、神様についていかなければならないことも示してくださいました。その週の日曜日に、ジーナが私をカルバリーチャペル・ホノルルへと招待してくれました。

 

ビル牧師が招きを行ったとき、私が最初にそれに飛びつきました。走っていく時に周りの人につまづくほどの勢いでした。自由に向けて私は走っていたのです。それが10年前の出来事です。神様に命じられるままに、“悪いこと”を全部やめました。そして私は新しくされたのです。全てのことにおいて神様が助けとなってくださいました。神様に裏切られたようなことは一度もありません。

 

そのあとすぐに、私はイスラエルに旅行に出かけました。その期間を通して、私の結婚も新しくされ、私と妻は子供をもう一人持つことを決めました。バラがあちこちに茂った、とても美しい小さな町を通りかかった時、私はガイドの人にこう訪ねました。

「ここの地名は何ですか?」

彼はこう答えました。

「お若いの、知らないのかい?ここはシャロンと言うんだよ。“シャロンのバラ”のシャロンじゃよ。あんたの神様の名前じゃろ[3]?」

それで、私と妻は、もし娘が生まれたらシャロンという名前をつけようと決めたのでした。

 

今日シャロンは9歳です。彼女は私たちにとって本当に祝福で、とても可愛いです。神様は、私たちの道を修正されました。私は自分の“おもちゃ”を全て取り除いたのですが、不思議なことに、一度私がこの世の物質的なものには本質的な価値はない、ということを理解したら、神様はこれらのおもちゃを返してくれたのです。それらを取り扱うための知恵も与えてくださいました。この世には良いものもあります。それらに“所持される”ことがない限り、皆さんもそれらを“所持する”ことができるのです。人生でもてる最高のものは、あなたをつくられた神様との個人的な関係です。神様はあなたのためにしなれたのです。わかりますか?わからなければ・・・・

 

「それについて祈りましょう!」

 

 

 

 

最後に

 

この本の最初で、私はあなたと共に戦い、あなたが結婚における敵との戦い方を学ぶのをたすけると書いた。人間関係を変えていくことの難しさは私も理解している。自分の状況というのは絶望的だと感じておられるかもしれない。そしてこう言われるかもしれない。

「私の伴侶は、結婚をまともなものにすることには、興味を持っていないんです。」

とか、

「私の伴侶は、現状維持で満足しきっています。私の内面は死にかけているのに。」

とか。

 

随分昔に、私は人により頼むことはできないということを学んだ。

信念をもつことができるのは自分自身と、自分の置かれている現状だけなのだ。自分の結婚を救うのに役立った信念を、他のカップルに当てはめてみようとしたこともあるが、私が彼らのためにどれほど励ましに富んで、前向きで、信じる人であったとしても、それらはあまり意味のないことだった。

 

この本の読者のなかには、変化を起こそうとして夫婦一緒にこの本を読まれる方もいるかもしれない。その他の方は、伴侶が興味を示さないので一人でこの本を読まれているのだと思う。私はどちらの立場にも立ったことがあるし、皆様が受けている試練も理解している。より頼むことができるのは、自分だけなのだ、ということを覚えていてほしい。自分の伴侶にしつこくせがんで、彼(彼女)が自分のようになるように命令すべきではない。神様があなたの側におられるなら、だれもあなたに敵対できないのだから(ローマ831節)。

 

自分の伴侶により頼むことはできないが、彼らのために祈ることはできる。神様は、あなたの結婚において働くことを望んでおられる。祈りを通して、神様がなさろうと考えとおられることをなしてくださるようにするべきだ。その過程で、神様はあなたの人生に恵みをもたらし、キリストに似たものとなることを教えてくださるだろう。何が起こったとしても、神様のあなたに対するご計画は素晴らしいものだ。神様の御国と、その義をまず求めなさい。そうすれば、神様はあなたに対するご計画を行ってくださるだろう。心を失ってしまってはいけない。神様が、絶望的な状況でおこなってくださった奇跡の証を読まれたことと思う。神様は準備され、喜んであなたの人生と結婚においてすでに働きを始めておられるのだ。尊きイエスキリストが

「私たちの願うところ、思うところのすべてを超えて豊かに施すことができますように。」(エペソ320節)

 

アーメン。

 

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[1] “Look within and be depressed; look without and be distressed; look to Jesus and be at rest”

[2] Problem pregnancy center

[3] イエス、シャロンのバラ(Jesus, Rose of Sharon)という歌がある。